★ 備忘録 「熱球通信」 ・ 特定非営利活動法人秋田県野球フォーラム ★

熱球通信は、秋田県野球フォーラム会員有志による備忘録を兼ねた「秋田県野球」にこだわった私的ブログで、記録等については公式なものではありません。リンク等オールフリーですので事前のメール等一切不要です。、更新頻度は原則毎日ですが、秋田県出身で県外に在住の方も念頭に更新していますので、内容等一部については地元情報より遅れる場合があります。練習試合の結果情報は原則掲載しません。また、コメント送信欄と掲示板については諸般の事情により対応していません。中学硬式野球・女子野球の紹介に努めています。

人名録(故人)

秋田さきがけ/ 能代市火災 能代山本広域消防本部設置調査委員会 報告書公表。

goudou報告書公表内容 / 消火活動中の2人が巻き込まれた原因を 「急激な濃煙に囲まれ、退避できない状況で炎にさらされたか、煙と同時に流れ込んだ炎にさらされた」 と推定。出火原因については、総務省消防庁消防研究センターの分析が続いているため 「調査中」。【2019.8.28】今年1月に秋田県能代市富町で能代消防署員2人が殉職した火災で、能代山本広域消防本部は8月28日、原因究明と検証のため設置した調査委員会の報告書を公表する。消火活動時の2人の行動や、現場本部の指揮命令といった当時の状況がどの程度明らかになるかが焦点となる。火災は1月22日午前7時ごろ発生。店舗兼住宅など3棟の消火活動中、消防司令の藤田大志さん=当時(32、能代硬式野球部-二ツ井、平成19年採用)=と消防司令補の佐藤翔さん=同(26)=が巻き込まれて亡くなった。火災後に設置された調査委では、客観性を確保するため、県消防学校、秋田市消防本部、大曲仙北広域消防本部の協力を得たほか、火災分析の専門機関である総務省消防庁の消防研究センター (東京) が調査に入った。3月末をめどとしていた公表時期がずれ込んだことについて、能代山本広域消防本部は 「火災現場の科学的な分析と署員への聞き取りなどを慎重に照らし合わせた」 としている。

<秋田野球人名録> 男鹿市払戸出身 石川真良 (甲子園球場の土の生みの親)。

sinryou今年阪神甲子園球場95 周年。【2012.6.10】千葉県南房総市在住の孫 相川泉さん(63)、ひ孫 相川昌也さん(33)父子が、平成24年石川真良杯学童野球大会開会式に参加。元高校球児昌也さんが始球式。【2010.8.10】以下、森岡浩氏編「甲子園高校野球人名事典」(東京堂出版)より抜粋。明治23年5月23日、南秋田郡若美町生まれ。旧制秋田中(現秋田高)から慶応義塾大学(法学部)に進学、三宅大輔捕手とバッテリー。卒業後阪神電鉄入社、阪神甲子園球場建設の際には〝土〟の責任者となり、試行錯誤の末、神戸熊内の黒土と淡路島島の赤土を組み合わせた現在に受け継がれている「基本型」を完成させる。専修大学初代監督を経て、昭和10年からは払戸中事務職員をしなjがら少年野球や母校秋田中学の指導をし、野球に臨む心得を記した「野球十訓」を著す。昭和44年9月19日逝去。平成20年以降、毎年6月に石川真良杯学童野球大会開催。

秋田野球人名録/男鹿市払戸出身 石川真良 (慶応-秋田、甲子園の土生みの親)。

sin払戸小野球スポーツ少年団、高円宮賜杯第39回全日本学童軟式野球大会出場。【2019.6.11】全国高校野球選手権大会の前身の 「全国中等学校優勝野球大会」 第1回大会の記録に、秋田中の名前がある。決勝は延長十三回、1-2で惜敗したが、全国に挑む秋田勢の歴史はここから始まった。103年前に刻んだ第一歩を、記録や証言からたどる。1915 (大正4) 年7月。秋田中に大阪朝日新聞から全国大会への 「招待状」 が届いた。都道府県の代表校を勝敗で決める、地方大会のシステムが確立していない頃だった。秋田中は横手中 (現横手)、秋田農 (現大曲農) に大勝した戦績を主催側に送り、出場が認められた。当時は球児を熱心に応援する空気は薄かった。前年の14年、秋田中は関東遠征で早稲田中などと試合をしたが、親の反対で行けない生徒もいた。「祖父に 『東京までタマ転がしに行くとは何事だ』 と言われ、父は遠征に行けなかったと聞いた」。秋田高野球部OB会の元会長、竹内陸郎 (86) はそう語る。秋田市の自宅には遠征前後の選手らの写真が残る。父長九郎も写っている。だが、遠征メンバーに父の名前はない。似た理由で、大阪での第1回大会に行けない選手がいた。急ごしらえで人数をそろえたというのが実情だった。当時のコーチは、同校出身で慶応大に進んだ石川真良。石川は投手で、大きく曲がるカーブを武器にしていた。「秋田高野球史」 によると、酷暑の中、猛練習で鍛えたという。石川と野球は縁が濃かった。卒業後は阪神電鉄に勤め、甲子園球場の土を配合する仕事をした。のちに故郷の男鹿市に戻り、中学で教師をしながら子どもたちに野球を教えた。小松一夫 (82) は中学時代、石川から野球の基礎を教わった。「選手を怒らない人だった。無駄なエラーすると、皆に聞こえないように 『バカッ』 と小声でつぶやいていた」。石川を知る人は県内でも少なくなった。有志による 「石川先生をたたえる会」 の会長だった小松は19年前、男鹿市にある野球場前に記念碑を建立した。「晩年は釣りばかりしていた。手先が器用だった」 と懐かしそうに話す。大阪へ乗り込んだ秋田中は快進撃をみせる。初戦は三重四中 (通称山田中、現宇治山田)に9-1。エースの長崎広が12三振を奪った。準決勝は優勝候補と目された早稲田実に3-1で競り勝った。当時の思い出を、主将で捕手だった渡部純司が語ったテープが残る。無明舎出版代表の安倍甲が86年にインタビューしたものだ。「長崎君は球が速いうえに、(対角線上に) クロスファイアで来る。僕らは慣れていたけど、相手は打つのが難しかったんじゃないかな」 と渡部。安倍は振り返る。「インタビュー時、渡部さんは90歳近かった。でも、頭が切れて、とてもよく当時のことを覚えていた」。決勝の相手は京都二中 (現鳥羽) だった。8月23日、豊中グラウンド。中盤までゼロが並ぶ接戦は七回、6番丹市郎が適時打を放って秋田中が1点を先取し、均衡を破る。八回表を終えて1-0。99回を数える大会の歴史の中で、秋田の学校が、最も大優勝旗に近づいた瞬間でもある。=敬称略 (山田佳毅)

秋田県野球人名録 / 田中英則 (秋田県と山形県の高校野球発展に多大な功績)。

tsuruoka令和元年春季東北地区高校野球大会 準決勝 明桜 (旧 秋田経法大付)-鶴岡東 (旧 鶴商学園)。【2016.1.14】平成23年夏甲子園出場 鶴岡東(鶴商学園-鶴岡商)野球部の監督を長年務めた田中英則氏が、8月12日の甲子園初戦対智弁戦を控えた2011(平成23年)8月8日、鶴岡市内の病院で急性循環不全のため死去、64歳。恩師の訃報を受けた鶴岡東佐藤俊監督は、号泣しながら 「田中先生のために校歌を」 とナインに訴え、試合後  「今日のプレーを天国から見ていてくれたと思う。これを新しい歴史にしたい」  とコメント。田中英則監督は、秋田県大館市出身で大館工から立正大に進学、卒業後の1970(昭和45年)に社会科教諭として赴任。同時に野球部監督に就任し、1978 (昭和53年) 夏選手権、1979 (昭和54年) 春センバツに君島厚志投手 (秋田田代中) を擁して甲子園に出場。79年春センバツ大会では天理に勝利し、池田に敗退。1981 (昭和56年) 夏選手権にも甲子園出場を果たし1991 (平成3年) に監督を退任。甲子園初出場時は、人口10万人の城下町からの初めての甲子園出場で 「鶴岡市はおおいに沸いた」 と新聞報道。監督在任中は、三浦第三監督や嶋崎久美監督などと積極的に交流を図り、秋田県と山形県の高校野球発展の架け橋のさきがけとなった。<以下余談> 県南大曲の花館中出身の三浦第三選手と県北大館の大館一中出身の石戸四六選手は 「館」 つながりで秋田商時代から懇意。石戸投手が秋田商入学時の主戦は佐々木吉郎投手。

秋田中、秋田高校野球部OB/神﨑泰雄さん 3月16日 87歳で死去 東京都三鷹市。

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秋田野球人名録 / プロ野球完全試合達成 佐々木吉郎投手 (日本石油-秋田商)。

sasakikiti2sasakikiti11966 (昭和41) 年5月1日対広島戦でプロ野球完全試合達成 (両リーグ通算8人目)。2008 (平成20年) 12月21日、敗血症のため東京都内の病院で死去、68歳。秋田市新屋生まれ、秋田商で捕手から投手にコンバート、社会人野球日本石油の投手として活躍 (橋戸賞) した後、1962年プロ野球大洋ホエールズ入団。現役期間は8年で23勝34敗。引退後、TDK野球部監督歴任、勝利数よりも完全試合の記憶が鮮明。<毎日新聞より抜粋> 秋田商出身入社5年目右腕は 「社会人球界随一の豪速球」 の前評判通り自慢の速球を武器に、1962年の第33回大会で43イニング連続無失点の新記録樹立、半世紀以上破られていない都市対抗の記録。

秋田野球人名録 / プロ野球完全試合達成 佐々木吉郎投手 (日本石油-秋田商)。

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<秋田野球人名録> 右下手の小さな大投手 今川敬三投手(早稲田大-秋田商)。

imagawa今川雄策氏、平成31年4月7日執行秋田県議会議員一般選挙秋田市選挙区で当選。【2015.4.30】前秋田市議会議員今川雄策氏(42、自民党)、2015(平成27年)4月実施秋田県議会議員選挙秋田市選挙区(定数12)で7,310票を獲得し初当選。165cm63kgの小さな大投手、秋田商時代の第32回センバツ大会(昭和35年)準決勝対米子東戦での投球数74球は8回参考記録ながらの最少投球、秋田県が誇れる記録。右下手からの無類の制球と緩急をつけた投球が持ち味。早稲田大卒業後、母校秋田商の監督として2度甲子園出場。監督在任中に交通事故により死亡(享年33)。詳細は 「北国の球魂歌」 にて。スポーツ雑誌 「高校野球 心に残る名勝負名場面 大アンケート」 、昭和35年春センバツ準々決勝秋田商2-1慶応、(試合寸評)秋田商の小さな大投手今川敬三が好投、延長11回慶応の豪腕渡辺泰輔を攻略して金星。<秋田商登録選手> ①今川敬三、②保坂栄、③栗橋五郎、④鈴木義光、⑤谷真克、⑥高橋洋之、⑦藤原正己、⑧川村誠、⑨堀井喜一郎、・吉田伸介、・田中、・上村雄悦、・米山義弘、・佐々木元、(監)古城敏雄。

秋田県野球人名録 / 右下手の小さな大投手 今川敬三投手(早稲田大-秋田商)。

im3弟99回全国高校野球大会、三本松(香川)のエース右腕佐藤圭悟投手 (3年) がわずか87球の2失点完投で二松学舎大付を下した。87球での9回完投は、1980年以降では最少4位タイ。【2015.4.24】毎日新聞 / 今から55年前、秋田商に165センチの 「小さな大投手」 がいた。今川敬三さん (故人) は抜群の制球力を持つアンダースロー。1960年 (昭35) 春のセンバツで4強入りし、そこから4季連続甲子園出場。60年春準決勝・米子東戦での74球 (8回) は、いまだに完投最少投球数のセンバツ記録だ。今川と同級生で、バッテリーを組んでいた保坂栄さん (71) は 「並外れた何かを持っていた」と話す。1960年(昭35)春のセンバツで4強入りし、そこから4季連続甲子園出場。60年春準決勝・米子東戦での74球(8回)は、いまだに完投最少投球数のセンバツ記録だ。今川と同級生で、バッテリーを組んでいた保坂栄さん(71)は 「並外れた何かを持っていた」と話す。保坂 当時は全県から 「エースで4番」 が秋田商に集まりました。同級生は最初は60人ぐらいで、残ったのは10数人。投手じゃないのは私だけでした。今川はランニングでいつも後方を走り、目立ちたがらないタイプ。1年夏まで打撃投手を務めたのですが、コントロールが良くて、打たれても打球が飛ばない。そこに (古城敏男) 監督は何かを見いだしたんでしょうね。新チームになった時に、今川を上手から下手投げに変えさせました。グラウンドのすぐそばに元秋田商監督の赤根谷 (飛雄太郎) さんの自宅があり、その庭のブルペンで練習しました。赤根谷さんが私の後ろに腰かけ、ステッキでミットを押さえて 「動かすな」 と言う。今川はそこに投げられないと、自分でボールを拾いにいきました。その繰り返しです。そうして磨いた制球力が今川の武器だった。直球にスライダー、カーブ、胸元に伸びる、沈むの2種のシュートを交え、コーナーをついた。4度の甲子園で8戦に登板し、うち2試合が無四死球、5試合がわずか1四死球だった。だが、強みはコントロールだけではない。「丸太のような」 太い腕を持ち、パワーもあった。保坂 いつでも打てるようなボールに見えるらしいけど、球威、キレがありました。打者のひざ頭あたりからぐっと伸びて、パーンと、ミットに手応えがあった。当時はお下がりの丸くて薄いミットだったから、痛くて痛くて。ミットと手の間にスポンジを入れていました。今川には 「保坂、音が響かないじゃないか。面白くない」 と言われましたよ。60年春、準々決勝の相手は優勝候補筆頭の慶応 (神奈川)。後に南海入りする右腕渡辺泰輔を擁し、バッティングも1回戦で21安打と好調。今川は慶応打線をシュートとカーブでうまくかわし、延長11回の末、2-1で完投勝利した。保坂 質のいいボールだから、打たれてもつまった当たりか、凡フライになるんです。渡辺が今川が亡くなった後に、墓参りに来たのですが、「もう1回試合してもやっぱり打てないだろうよ」 と言っていました。今川は早大卒業後、秋田に戻り、67年に母校の監督に就任。70、75年夏の2度甲子園出場に導いた。だが76年6月17日深夜、実家の大館市に向かう途中、センターラインを越え、対向車線のトラックと正面衝突。33歳の若さでこの世を去った。翌日の地元紙 「秋田魁新報」 の見出しは 「今川監督、居眠り運転で死ぬ」。当時、秋田銀行郡山支店(福島)に勤務していた保坂さんは、知らせを受け、すぐに秋田へ向かった。保坂 あまり見られませんでした。69年に自分が結婚式を挙げた時、あいつは練習を終え、秋田商ユニホームのまま来ました(笑い)。それだけ飾らないやつだった。今でも仲間と集まると 「今川がいなかったら甲子園に行けなかった。引っ張ってもらった」 と話します。(敬称略)[高場泉穗]

2014(平成26年)1月/元巨人投手 水沢薫氏告別式 巨人原辰徳監督弔辞全文。

mizu1月10日早朝、突然の訃報が入ってきました。あなたは87年、巨人軍に入団し、選手、コーチ、そして監督付きマネジャーとして長きに渡り友人であり、そして戦友でもありました。特に2008年より監督付マネジャーとして、私はあなたに支えていただきました。共に戦い、共に喜び、共に悔しがり、たくさんの思い出を作りました。 WBCの世界一。2度の日本一。常に前向きで堂々としているあなたの姿に、私は勇気づけられたものです。素直な心、感謝する気持ち。私もあなたに教えていただきました。 おいしいものを食べるのが大好きで、感動したものは必ず写真を撮っていましたね。ワインのことも全く知らなかったミズ。最初に2人で飲んだワイン覚えていますよね。シャンベルタンです。「ナポレオンがこよなく愛したワインだよ」 と説明をしましたよね。その味が相当気に入ったんだね。そんな機会があるたび、シャンベルタン、シャンベルタンと。ミズ、本当に味がわかっていたんですか?WBCで、サンディエゴで試合をしましたね。その時サンディエゴ動物園に散歩に行こうと決め、ホテルからタクシーに乗りましたよね。その時にタクシーの運転手さんに 「go toアニマルパーク」 とミズは言って、キョトンとされましたね。その時は、少し僕が手伝ったような気がします。今思えばあれが最後のシーズンでした。2012年、5冠を達成し最高の年でした。シーズンオフ、私はあなたを 「健康診断に一緒に行こう」 と誘いました。いつものように 「ありがとございます。お願いします」 と言って向かいました。そこからちょっと辛かったな。旅行にも行きましたね。そしてその年のV旅行の日がやってきました。あなたは、家族と先生とよく話をして、V旅行に行く事を選択しましたね。久しぶりに成田空港で再会をしました。私は何も言わずにあなたを抱きしめ、あなたも私を抱きしめました。「共に戦おう」。と言葉を搾り出しました。みんなに好かれたミズ。たくさんの人が力になってくれたな。弱音をはかず、ただただ元気になり現場に戻るんだ!その希望の中、頑張りましたね。2013年1月から始まった治療、4月、5月、6月。まさに順調でした。「ミズ、オールスター以降、現場復帰目指そう」。私は本気で言い、あなたも本気でそう思いましたね。姿かたちも全く変わらず、食欲も見事でした。しかしかないませんでしたね。「ミズ。ちょっと早かったな。もう少し時間をかけよう、焦らずにまた頑張ろう」「また、1から頑張ります」。そう明るく私に答えてくれましたね。私はあなたが亡くなる日の夕方、電話をしましたね。少し体力が落ちていた事は気付いていましたが「ミズ、ちょっとしんどそうだな。もう少し体力が上がって元気になってから病院に行くよ」 「そうしてください。頑張ります」。それが最後の言葉でした。ミズ、俺は悲しい。早すぎる別れだな。でもミズは精いっぱい、全速力で頑張りました。あなたが愛した家族、奥様、2人のお嬢様、そして参列してくださっている皆さま。今はみんな悲しい。でもあなたが教えてくれた、くよくよせずに前向きに進む。この事はみんな分かっています。 ミズ、ミズはそんなことを心配せずに、天国に行ってまずはゆっくり休んでください。だって頑張ったぜ。ミズ。そして元気になったら天国から家族、みんなを見守ってください。安らかに。水沢薫、さようなら。読売巨人軍監督、原辰徳。

日本高野連 「2011育成功労賞」 秋田県から元秋田県高野連会長 津谷正俊氏。

ikus花館クラブ石川堅治監督(元大曲農野球部監督)平成30年第40回秋田県500歳野球大会を目前に控えた9月14日急逝。【2011.7.14】日本高野連は、野球部の責任教師や監督として指導、育成に通算20年以上にわたり貢献した 「育成功労賞」 の平成23年度の表彰者49人を発表。秋田県からは元秋田県高野連会長 (平成17年4月から2年間) 津谷正俊氏 (元鷹巣農林監督) が選ばれた。教え子に現日本ハム中嶋聡コーチ兼任捕手[秋田県高野連表彰監督] 熊谷隆益氏(秋田商校長として甲子園出場、横手高監督時代の教え子に竹林宏NHKスポーツアナウンサー。[秋田県高野連表彰審判員] 加賀光也、塚本康次、菅原一樹、佐藤敏弘の各氏。【2010.7.15】日本高野連は、高校野球の育成と指導に永年従事し顕著な功労があった指導者を表彰する 「育成功労賞」 の受賞者を決定し、秋田県からは佐々信雄氏が受賞。同氏は、横手高から日本体育大学進学 (担当教科保健体育)、長く増田監督を務め (平成2年まで)、平成4年の湯沢を挟んで平成6年から平成15年まで横手工で野球部の指導にあたる。平成8、9年当時、御子息佐々仁監督 (雄物川) との親子監督で度々マスコミで紹介。[秋田県高野連表彰監督] 石川堅治氏は今年大曲農退職。[秋田県高野連表彰審判員] 柴田仁志、松田耕治、佐藤奥之、小田長久喜、伊藤雄二、藤原秀樹、佐藤恒の各氏。【2007.6.15】日本高野連は、「育成功労賞」 48人発表。秋田県からは旧秋田市立 (現秋田中央) を3度の甲子園に導いた塚田丈也氏 (63) が選ばれた。同賞は野球部で20年以上指導し、育成と発展に功績のあった部長や監督を表彰する。【2006.7.13】 高校野球選手の指導に尽くした人に日本高校野球連盟と朝日新聞社が贈る平成18年度の育成功労賞に秋田経法大監督 三浦第三氏(65、大館商、秋田商、大曲農監督)が選ばれた。

秋田県野球人名録/ AAB秋田朝日放送で高校野球解説 牧野強さん(秋田高校)。

-平成13年4月28日午後9時16分急病のため永眠-
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秋田県野球人名録/昭和61年度社会人野球 東肥クラブ 牧野強選手(秋田高校)。

牧野強 コーチ兼捕手(31、秋田)
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訃報/元秋田商サッカー部監督 外山純さん(69、中央大-秋田商-秋田東中)死去。

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元プロ野球 三平晴樹投手(秋田商) 孫 渡部淳一投手(3、慶応、東京神宮シニア)。

北神奈川大会決勝対桐光学園戦で8回途中から救援
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秋田さきがけ紙 「秋田市営八橋球場50年-球史を彩った男たち」 三平晴樹投手。

孫 渡部淳一投手(3、左、慶應、東京神宮シニア) 春夏甲子園連続出場
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訃報 / 旭日単光章 (スポーツ振興功労) 元金足農野球部監督 菅原泰雄氏逝去。

6平成30年7月4日午後2時逝去。ご冥福をお祈りいたします。【2013.11.04】元金足農野球部監督 菅原泰雄氏(76)に旭日単光章(スポーツ振興功労)。旧昭和町 (現潟上市) 出身、金足農から東京鉄道管理局 (現JR東日本) に進み主に遊撃手で活躍 (補強選手として全国優勝経験)。昭和36年に帰郷し金足農野球部監督 (11年間)、自身の選手・監督しての甲子園出場は果たせなかったが、他校の倍やる厳しい練習で嶋崎久美氏 (65、現ノースアジア大監督) 等の甲子園出場監督始め多くの選手を育てる。現在秋田県軟式野球連盟、秋田県野球協会顧問。<昭和44年春季秋田市内リーグ 金足農 登録選手> [投]遠藤民雄(3、井川)、[捕]三浦春樹(2、羽城)、[一]三浦昇(3、外旭川)、[二]菅原吉範(3、羽城)、[三]○斉藤好春(3、羽城)、[遊]佐藤芳男(3、脇本)、[左]遠藤一雄(3、井川)、[中]加藤薫(3、戸米川)、[右]菅原与志美(3、羽城)、竹田文夫(3、馬場目)、佐藤儀和(2、北)、中川誠(1、北)、大淵金広(2、潟西)、黒崎猛(3、川添)、一関勇一(2、五城目)、千田清(2、八郎潟)、大淵和則(2、潟西)、工藤茂則(2、琴丘)、高野新一(1、上川大内)、八柳昇(1、大川)、[責]安杖正昭、[監]菅原泰雄、[記]沢田石吉広(1、五城目)。

日刊スポーツ東北版 / 「甲子園」100年物語 輝いた東北の男たち 信太貞一塁手。

Ceremonial_First_Pitch_1915信太貞選手の孫 信太誠一さん(54)が第100会大会開会式後の始球式で投手を担当。・<決勝延長13回悲劇のサヨナラ / 信太貞一塁手> 1915年(大4)に夏の甲子園の前身である 「第1回全国中等学校優勝野球大会」 が始まってから今年で100年。このコーナーでは 「甲子園100年物語~輝いた東北の男たち~」 と題し、「甲子園」 を舞台に生まれたみちのく球児たちのドラマ、秘話などをお届けしていきます。第1弾は大旗にあと1歩まで近づいた準優勝編。その初回は、延長にもつれこんだ第1回大会決勝でサヨナラ失策をした秋田中・信太貞(しだ・さだか)内野手の物語を、息子の信太聡一さん(81)と孫の誠一さん(51)に語ってもらいます。秋田中は、おやじのエラーで負けた−。息子聡一は、中学2年の時に学校で聞かされるまで、その事実を知らなかった。[聡一] 先生が教えてくれるわけです。こういう試合があって、最後はファーストのエラーで負けたと。席の後ろから 「信太のおやじだ! 」 と声が上がった。帰って家で報告したら、おやじは何も言わなかった。1915年8月23日。東北勢最初の優勝のチャンスは “エラー” で逃げていった。1-1で迎えた延長13回裏、京都二中1死二塁。二塁へ飛んだ小フライを斎藤長治がワンバウンドで処理し、一塁へ投げる。一塁の信太が 「お手玉」 し、その後すぐにホームへ転送するも、二塁走者のホームインには間に合わなかった。この決勝点を許す失策は、一塁手の信太に記録された。信太は、秋田に帰り、校誌 「羽城」 にこう寄稿している。悪戦苦闘十三合、刀折れ矢尽きて我軍万事休して戦の終った瞬間、余は忘れんとして忘れ能はざる光景である。かの燦然たる優勝旗八百円の優勝旗は、彼れ京都二中の手に授けられたのである。吾れらは帰途の電車の内、宿舎に入っても只出づるものは涙のみであった(原文ママ)本来は捕手で、大会直前の練習試合でケガをし、一塁手に転向。それでも守備中に 「さぁ、こい。さぁ、こい」 と球を呼ぶ自信はあった。攻守に活躍したとし、主催の朝日新聞から現在でいうベストナインとして表彰された。亡くなるまで言い訳はしなかった。1948年(昭23)2月22日、貞は自分の野球人生の多くを語らないまま、大腸がんでこの世を去った。その代わり、妻礼(ひろ)が、息子聡一へ、孫の誠一へ、夫から聞いた話を聞かせた。[聡一] おやじから聞いた野球の話はほとんどないの。[誠一] 子どもには話さないけど、多分、祖母には話していたんだよ。私は (礼さんから) 「おじいさんが、(エラー)やったと言われているけど、お前も野球やれ 」と、ずっと言われてきた。聡一は、後に地元紙 「秋田魁新報」 の運動記者として、1960年(昭35)から春夏通じ9度甲子園を取材。誠一は、「じいちゃんの敵を取りたい」 と、秋田高野球部で同期で元プロの石井浩郎らとともに甲子園を目指したが届かず。50歳を過ぎた今も、草野球で外野手としてプレーし続ける。野球と深く関わる2人の元には 「信太貞」 のエピソードが集まっていった。貞の野球への熱い思いは、一生続いた。秋田中を卒業後、青山学院大予科に進学したが、すぐに父成六が病気で入院したため、中退して東京で就職。休みに秋田へ帰省した際には、仲間と作った 「朝日クラブ」 という草野球チームでプレーし、少年野球大会も立ち上げた。その大会は、秋田魁新報に開催権が渡り今でも続く。その後、成六が亡くなると秋田に帰郷した。[聡一] 秋田に帰ると男鹿半島、仏戸(ふっと)の小学校で代用教員をしていた。その頃の教え子に聞いたこともあるけど、野球ばっかり教えていたそうだ。野球愛が高じて自ら 「運動の秋田社」 というスポーツ新聞社を立ちあげ、茨島(ばらじま)球場という今はなきグラウンドの管理人も務めた。甲子園予選の試合中に、熱くなってグラウンドに乱入。試合を中断させ、ヤジを受けたこともあった。妻子とともに球場近くに住む野球漬けの生活。だが、戦争の影が迫る。[聡一] 戦時中に、スポーツ新聞が作れなくなった。うちのおやじは野球以外何もできなかった。召集はされず、国策のパルプ工場で働き、終戦の半年前からは、プロペラを作る軍需工場に単身赴任した。もともと料理が出来ないため、そこで胃腸を崩し、終戦から2年半後、51歳でこの世を去った。秋田中・信太貞一塁手は、最後に失策した選手として記録に残る。ただ、こんな説もある。二塁手の斎藤は大会前に連れてきた急造の選手。ワンバウンドで捕った後、あわてて一塁へ投げたその送球が悪かった、と。[聡一] セカンドが悪いと言ってくれる人もいる。そうかもしれないが、そちらにも家族がいるんだからと思ってしまう。誰が悪い、ということは反対です。[誠一]だからうちが、エラーして負けました、と。それをずっとリベンジしようと思っているんだよ。今年12月19、20日には、100周年を記念し、甲子園球場で第1回出場10校のOB戦が行われる。誠一は、秋田高OBとしてメンバー入りを熱望する。秋田中が優勝を逃したあの日から100年。東北勢の優勝はまだない(敬称略)【高場泉穂】。◆第1回大会と秋田中 1914年、朝日新聞が全国中等学校優勝野球大会(現全国高校野球選手権大会)の開催を決定。全国各地区から10校が参加し、翌15年8月18日から23日にかけ、大阪・豊中球場で行われた。秋田中は県内の秋田農(現大曲農)、横手中(現横手高)と3校で臨時の東北大会を開催。2校に勝ち東北代表として参加した。

秋田野球人名録/ 猿田五知夫猿田興業株式会社代表取締役会長(秋田-豊岩)。

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-昭和50年春季秋田市内リーグ戦 成田朝春部長、赤沼新二監督-
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秋田野球人名録/ 猿田五知夫猿田興業株式会社代表取締役会長(秋田-豊岩)。

松下電器産業-明治大学-秋田高校。謹んでお悔やみ申し上げます。
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野球人名録/佐藤秀明(プロの世界で中継ぎという地味な仕事に徹し続けた左腕)。

hideakichuuou昭和60年の阪神日本一、平成元年の近鉄パ・リーグ優勝に中継ぎという地味な仕事で貢献した佐藤秀明投手(日立製作所-東洋大-秋田市立-土崎)が平成19年5月17日、46歳の若さで急逝。昭和60年ドラフト2位で阪神入団、球威に頼らない巧み投球術で、中継ぎで193試合に登板、実働7年で通算10勝11敗6セーブ、防御率4.15。戒名は「秀嶺慈球居士」 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E8%97%A4%E7%A7%80%E6%98%8E  <昭和53年春 秋田市立 登録選手> [投]佐藤秀明3、土崎)、[捕]福田泰弘(3、上小阿仁)、[一]小野士(2、八郎潟)、[二]加賀谷一(3、外旭川)、[三]長谷川浩靖(3、秋田南)、[遊]佐藤重樹(3、川内)、[左]石川光一(3、戸賀)、[中]金子里志(3、天王)、[右]○中川透(3、土崎)、小玉竹志(3、男鹿東)、熊谷正人(3、河辺)、柿田淳(3、土崎)、加賀徹(3、湯沢北)、長谷川隆浩(3、土崎)、佐藤善紀(2、秋田南)、森元忠浩(3、土崎)、坂谷浩英(3、五城目一)、戸来洋二(3、秋田西)、福田久雄(3、土崎)、中津川辰裕(3、東由利)、[責]杉山久夫、[監]塚田丈也、[記]加藤敦(2、土崎)。

昭和58年 秋季東北高校野球大会 決勝戦 金足農-大船渡 延長16回の白熱戦。

oo訃報 / 半田英生選手逝去。1983 (昭和58年) 10月12日、第36回秋季東北地区高校野球大会決勝戦 金足農-大船渡 (岩手県営)は、延長16回の白熱戦となり岩手県代表大船渡が優勝、金足農の東北初制覇の夢は持ち越しに 。試合は金足農が序盤の2回に2点先制も大船渡が4、5回に1点づつ返し試合は延長戦に、16回の表、大船渡が逆に2連続二塁打で逆転、金足農もその裏、鈴木の適時打で1点差と詰め寄るも後続が併殺打で試合終了、金野・水沢両投手完投、試合時間3時間56分、無失策試合、大船渡4番鈴木選手水沢投手から本塁打、[金足農](三塁打)水沢、(二塁打)工藤2、水沢。<平成58年秋東北大会決勝戦金足農先発> [三]大山等(2、琴丘)、[中]斎藤一広(2、雄和)、[遊]工藤浩孝(2、八郎潟)、[投]水沢博文(2、秋田北)、[捕]○長谷川寿(2、五城目一)、[一]鈴木善久(2、五城目一)、[左]山崎里史(2、下浜)、[二]小玉勇樹(1、五城目一)、[右]柏谷安彦(2、秋田北)、石塚昭彦(1、河辺)、安田卓(1、秋田北)、半田英生(2、井川)、石田則嗣(1、秋田北)、佐藤学(2、天王)、小玉文隆(1、羽城)、佐藤俊樹(2、船川)、浅野和幸(2、井川)、館岡明(1、五城目一)、原田好二(1、船川)、小林誠(1、秋田南)、[部長]豊島君男、[監督]嶋崎久美、[記録]鳴海猛(2、八郎潟)。

訃報/潟上市鎌田久氏三男 鎌田雄大さん(享年42)4月12日午後0時25分永眠。

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「熱球通信」 リレートーク <平成7年 高校生編> 鎌田雄大選手(金足農-羽城)。

「熱球通信」 現役高校生リレートーク  トップバッター
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秋田野球人名録 / 小窪敬一 元秋田経法大付野球部監督 (電電東北-仙台商)。

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秋田野球人名録 / 小窪敬一 元秋田経法大付野球部監督 (電電東北-仙台商)。

kokubohuzoku元秋田経法大付野球部監督。平成17年12月19日心筋梗塞のため仙台市内の病院で死去、56歳。平成13年4月から秋田経法大付で指揮を執り、同年秋の東北大会 (岩手県、仙台育英優勝) で準優勝し、平成14年センバツに出場 (平成15年退任)。昭和42年仙台商のエースとして甲子園春夏連続出場、電電東北で都市対抗4度出場、仙台商の監督として昭和58年夏甲子園出場という輝かしい球歴。NTT東北の監督も約7年間務め多くの選手を育てた。秋田県関係では竹内昌也投手 (阪神-NTT東北-本荘-象潟)。平成18年11月、1周忌を機会にフルスタ宮城で追悼試合が行われた。<秋田経法大付甲子園先発選手> [二]佐藤茂樹(3、北陽)、[遊]千田祐成(3、八郎潟)、[中])○桑島知宏(3、光陽)、[捕]松田幸樹(3、湯沢北)、[左]高橋康太(3、河辺)、[投]平塚隆一(3、あいの里東)、[一]田村潤(3、比内)、[三]⑤山内伸悟(3、大館東)、[右]山中慎太朗(3、横手南)、木村雄太(2、花輪二)、菅原圭介(2、羽城)、田中雄也(2、二ツ井)、福田卓(3、協和)、佐藤壮(3、西仙北東)、高橋拓也(3、山田)、阿部隆雄(2、能代二)、高橋純(1、塩釜一)、佐藤大(2、泉)、今野福太郎(1、本荘南)、堀内誠(3、田代)。

昭和53年夏甲子園大会 対箕島戦で選手に指示を与える 能代高校 太田 久 監督。

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秋田県野球人名録/ 秋田中学 渡部純司捕手(第1回全国中等野球大会準優勝)。

t5zenkoku7601812bd2596873平成30年1月4日付秋田さきがけ紙で特集。第1回全国中等学校野球大会決勝戦スタメン、[捕]渡部純司(5)、[投]長崎廣(5)、[三]鈴木久米治(3)、[遊]小山田推一(4)、[一]信太貞(5)、左)丹一郎(3)、[中]羽石統一(4)、[右]高橋蘶(2)、[二]藤長治(3)。【2015.4.14】阪神甲子園球場で開催される夏の全国高校野球大会の前身 「全国中等学校優勝野球大会」 が始まって100年になる節目に合わせ、第1回大会に出場した全10校のOBが甲子園に集い、当時のカードで対戦する計画が進んでいる。第1回大会が開かれたのは1915(大正4年)8月。まだ甲子園はなく、大阪府豊中村 (現豊中市) の「豊中グラウンド」で東北から九州までの地区予選を勝ち抜いた10校が熱戦を繰り広げた。【2010.1.19】 <秋田県野球人名録> 渡部純司 (第1回全国中等野球大会準優勝)。秋田中の元捕手。平成5年12月22日、入院先の埼玉県の病院で老衰のため98歳で死去。甲子園の前身である大正4年の第1回全国中等学校野球大会で準優勝した秋田中野球部の元捕手。大阪豊中球場で行われた第1回大会に東北代表として出場した秋田中は、1回戦不戦勝、2回戦宇治山田中、準決勝早稲田実業を破って決勝進出、決勝で京都二中に延長13回1-2で惜敗した。秋田中卒業後、慶應義塾大学に進学し、陸上競技の選手として大正期に日本記録を保持した。戦後は旧県営手形球場の管理人や秋田大学北光会館管理人を長く務めた。 <秋田中参加選手> (投)長崎廣、(捕)渡部純司、(一)信太貞、(二)齋藤長治、(三)鈴木久米治、(遊)小山田推一、(左)羽石統一、(中)丹一郎、(右)野口眞吉、土井繁治。

昭和50年8月/ 第4回東北地区中学軟式野球大会 本荘市立本荘南中学校優勝。

4touhokuchuuchuugaku【2016.5.13】中学時代に野球部のチームメートだった村岡敏英衆院議員は 「彼が故障のときは励まし、逆に私が落選中は慰めてくれた親友だった。国会が終わったら見舞いに行こうと思っていたのに…」 と死を悼んだ。<若鷲旗争奪第4回東北中学校野球大会 (昭和50年8月12日~、宮城球場) 本荘南中学校優勝、大曲中学校準優勝>[決勝]本荘南1-0大曲(延長10回押し出し、工藤幹夫投手24イニング無失点)、[準決勝]本荘南1-0弘前一、大曲1-0佐沼、[1回戦]本荘南3-0仙台一、大曲2-0喜久田。<本荘南中ベンチ登録選手>[投]工藤幹夫(3)、[捕]森川透(3)、[一]上原隆(3)、[二]保科政幸(3)、[三]○尾留川徹(3)、[遊]鈴木昭(3)、[左]菊地正和(3)、[中]斎藤潤(3)、[右]渡部浩孝(3)、小園(3)、小野晃(3)、丸山(3)、小野利(3)、渡部学(2)、斎藤一(3)、[部]長谷川達夫、[監]沢田宣夫。<大曲中ベンチ登録選手>[投]高橋和彦(3)、[捕]○斎藤頼太郎(3)、[一]藤井吉人(3)、[二]古屋司(3)、[三]伊藤利彦(3)、[遊]小西憲二郎(2)、[左]小松功司(3)、[中]桑島功(3)、[右]高橋和彦(2)、小松(2)、高橋良(3)、渡部(3)、児玉(3)、加藤(3)、[部]加藤尚、[監]後藤晃男。

秋田県人名録 / 秋田県赤根谷飛雄太郎様で郵便物届いた赤根谷飛雄太郎投手。

aka秋田コンマーシャルクラブの詳細情報求めています。【2014.3.15】3月14日、明桜八木茂新監督が初指導。秋田県でプロ野球経験者が高校野球を指導するのは急映 (東急、現日本ハム) に投手として在籍後、1950年代に秋田商監督を務めた赤根谷飛雄太郎氏以来2人目。【2010.4.10】大正5年1月5日~昭和44年8月22日、秋田県の高校野球はこの人抜きに語れないと言われています。元秋田商野球部監督。詳細 → 赤根谷飛雄太郎 「秋田県 赤根谷飛雄太郎 様」 で郵便物が届いた等逸話多数。

秋田野球人名録 / 山谷喜志夫元秋田高監督(函館オーシャンズ、法政大-秋田)。

akita、、、カリスマ性豊かな山谷喜志夫監督、、、。山谷監督の一番の思い出は、バント練習で、投手が全力投球するボールをバッターボックスで手づかみにする荒業にはドギモを抜かれた。選手全員が深く感激し、この監督のもとならばの意を強くしたものだった。また山谷監督は、人柄もおおらかで当時多くの周囲の人々の支援を得たのもそのせいであったと思う。 http://akitahs-doso.jp/libra/188 秋田商赤根谷飛雄太郎選手・監督と常に対比される。旧秋田中で選手、秋田高で監督として輝かしい球歴誇る。旧秋田中では1年から正選手で昭和6年から4年連続甲子園出場、内野以外にも捕・投・外もこなす俊足強肩ファイト溢れるオールラウンドプレーヤー。法政大に進学し、卒業後は社会人函館オーシャンズにも一時籍を置く。秋田高監督在任中12年間で3度母校を甲子園に導く。「投手育てさせたら 赤根谷、総合的なチームづくりは 山谷」 と評された。昭和48年秋田高校100周年記念式典で特別表彰。親子 (勝志選手、昭和48年、秋田高) で甲子園出場したことでも有名。平成4年1月9日逝去。

平成3年10月秋田魁新報連載 「秋田市営八橋球場50年-球史を彩った男たち」。

2013yabase【2016.7.25】三平晴樹投手(阪急-大洋-大毎-日鉱日立-秋田商-土崎)平成28年7月25日逝去、77歳。昭和33年大毎入団、昭和35年に12勝を挙げ優勝に貢献、昭和40年現役引退。通算41勝34敗。<秋田魁新報1991(平成3年)10月21日~ 連載  「八橋球場の50年-第1部 球史を彩った男たち」>。今川敬三(秋田商)、水沢博文(金足農)、大久保正樹(秋田高)、遠藤恒男(本荘高)、簾内政雄(能代高)、石戸四六(秋田商)、高橋茂(大曲農)、小野巧(秋田高)、中島義博(秋田市立)、大石正行(横手高)、成田光弘(秋田商)、工藤幹夫(本荘高)、景山貴志(経法大付)、三平晴樹(秋田商)、本多秀男(秋田高)、成田憲明(秋田高)、阿部政文(大館鳳鳴)、小山満(経法大付)、三浦健二(秋田工)、船木千代美(秋田市立)、山岡政志(秋田商)、佐々木吉郎(秋田商)、嵯峨健四郎(秋田商)、小西秀朗(秋田高)、石崎透(秋田市立)、男鹿谷和美(秋田高)、猿田和三(秋田高)、山田久志(能代高)、鈴木寿(経法大付)、高橋捷郎(秋田高)、三浦清(秋田商)、武藤一邦(秋田商)、高松直志(能代高)、高橋千秋(秋田市立)、中川申也(経法大付)。

大館鳳鳴高校野球部長として第83回選抜大会出場 戸澤亮 前横手高校野球部長。

436136f5-s故戸澤亮さんが秋田県高校野球連盟から表彰、長男の樹選手(花館小3年、学童野球花館ドッカーンズ)が受け取り。【2017.1.23】戸澤亮さん(筑波大-横手)の訃報が、、。平成24年~平成27年 母校横手高校野球部長。<平成23年春 大館鳳鳴高校野球部3年生> [責任教師] 戸澤亮、[監督] 齊藤広樹、[選手] 齊藤浩平(八幡平)、成田秀(鷹巣)、佐久間亮介(大館東)、篠村恭平(成章)、○小貫慧太(比内)、阿部春太郎(八幡平)、吉田隼斗(花輪一)、亀田樹(小坂)、魚住雄也(阿仁)、石川尭史(大館東)、津谷一総(鷹巣)、田子雅也(尾去沢)、上杉郷(阿仁)、山口智哉(大館一)、赤坂拳人(十和田)、虻川俊貴(下川沿)、阿部祥人(八幡平)、石戸谷昭吾(大館南)、阿部純也(大館東)、小野幸成(合川)、佐々木浩史(成章)、佐藤新(比内)、玉造千聖(森吉)、北林啓(田代)、庄司悦大(矢立)、伊藤雄翼(大館二)、安保朋哉(比内)、安保弥哉(比内)、大沢凌平(上小阿仁)、池田彩緒里、藤井佑奈。

<秋田野球人名録> 若林俊治(佐倉の長嶋茂雄選手に注目した元巨人スカウト)。

TKY200308200261sakura巨人二軍戦に長嶋茂雄終身名誉監督が来場。6月4日(日)に長嶋氏の出身地、千葉県佐倉市長嶋茂雄記念岩名球場で行われるイースタン・リーグ公式戦巨人-ロッテに背番号3のユニホームを着て始球式の打席に立つことが球団から発表。【2013.4.12】まだ全国区では無名だった千葉県立佐倉第一高校長嶋茂雄選手の才能に注目したことで知られる元巨人軍スカウト、享年85歳。。明治36年1月2日、秋田県横手市出身、東京帝大卒業後、報知新聞社入社。その後、読売新聞社に出向し、球団総務部長、野球部長等歴任。本格的な野球経験はなかったが、販売局在籍中に全国を巡って築いた情報網がスカウトになってから生かされた。長嶋選手を初めて観た時の同氏の有名なメモ 「 関東に逸材あり。南関東のピカ一、掘り出しもの 」。 ※ 詳細は平成19年7月4日付日本経済新聞 <私の履歴書 長嶋茂雄(4)>

山田久志投手に横投げを進言した 元プロ野球 田辺修内野手(立正佼成会ー能代)。

puro<北羽新報参照> 能代山本出身のプロ野球選手第1号。能代高校から立教大に進んだが2年で中退し、ノンプロの立正佼成会に入り投手から内野手に転向、打力を買われて昭和38年秋に大洋に入団、背番号68。入団時身長186cm体重94kg。豪快なスイングで 「ホームランか三振」 といわれた。プロ生活は2年で終わり、その後は家業の鉄工所を継ぐ。山田久志投手のアンダースローのきっかけをつくったのが田辺さんだと、山田投手は著書で紹介。<ネットより> 1メートル87、85キロは大型選手の多い大洋の中でもひときわ目立つ。森、長田といった重量選手より一回りからだが大きくいつも68番のユニホームを窮屈そうに着ている。その田辺が一軍戦で初めてヒットを飛ばした。八日、浜松の対巨人2回戦で八回、田辺は先頭バッターとして代わったばかりの巨人四人目中村と相対した。初球は高目のカーブだったが、バットの先っぽに当った打球は鈍い音を立てながらもあっという間に左翼手堀田の頭上を越えてフェンスへ直接ゴツン。ところがスタートした田辺は一塁ベースを回ったところで、腰くだけ。一瞬ガクリとしたが持ち直してそのまま二塁へー。田辺にとって、会心とまではいわないが力にまかせた一発だった。田辺は童顔をほこばせながら、「バッター・ボックスにはいる前にシゲ(高橋重)に、最初からカーブを狙え、といわれて待っていたら本当にカーブでした。オープン戦5打席目にやっと初ヒットが出ました。一軍でヒットなんか打てっこないと思っていたからうれしいです」 と大喜び。

DeNA マネジャー統括兼GM補佐 浅利光博氏 (釜仙-角館) 胃がんのため死去。

asari現在、福岡ソフトバンクホークスでコーチを務めている入来祐作氏(平成8年のドラフトで本田技研工業から読売ジャイアンツを逆指名して1位入団)が戦力外通告を受け、どこからもオファーがなく困っている時に手を差し伸べたのが、横浜入団時の編成担当者の浅利光博氏だった、打撃投手の話を打診されそれを引き受けた。2016.9.11】浅利光博氏 (DeNAマネジャー統括兼GM補佐)が平成28年9月10日午後11時35分、胃がんのため横浜市内の病院で死去、61歳。新人テストで120人の難関を突破してプロ入り。【2006.6.02】横浜の浅利光博運営部長は6月2日、東京都内のセ・リーグ事務局を訪れ、前日のソフトバンク戦で審判の判定が食い違ったことに関して 「提訴試合」 としての申請を行い、試合のやり直しを求めた。リーグでは週明けにも受理するか却下するかを決める。9回一死一塁で横浜多村が放った三塁線のゴロを鈴木三塁塁審はファウルとしたが、渡田球審がフェアと判定。ボールは二塁→一塁と転送され併殺が成立、試合が終了した。横浜牛島監督が渡田球審に審判間の協議を求めたが受け入れられなかった。

庄司捷雄 元秋田県高等学校野球連盟会長 (78、金足農校長、旧森吉町教育長)。

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巨人球団勝利第1号 畑福俊英投手(右右、専修大-横手、専修大松戸監督歴任)。

横手高校OB 畑福俊英
 

元日本ハム投手 工藤幹夫さんが5月13日、肝不全のため秋田市内の病院で死去。

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2016年5月18日(水) 二宮清純 唯我独尊 「工藤幹夫 肝の据わった奇襲秘話」。

mikiohttp://www.ninomiyasports.com/archives/57918 13日に肝不全のため55歳の若さで死去した元日本ハム投手の工藤幹夫は、1982年10月9日、右手小指を骨折していたにもかかわらず前期優勝の西武とのプレーオフ第1戦に先発したことから、引退しても “奇襲の人” とのイメージが付いて回った。プレーオフ1カ月前のことだ。自宅ドアに右手小指をはさんで骨折。手には包帯、腕にはギプス。実はこれ、親分こと大沢啓二監督が指示した手の込んだ芝居だった。西武・広岡達朗監督が 「スポーツマンシップの風上にも置けない」 と激怒したのも無理からぬ話だ。工藤は7回途中まで投げ被安打3の無失点。まんまと西武を欺いたわけだから、さぞかし痛快だっただろう…。そう思い本人に訊ねたところ、渋い表情になった。今から3年前、場所は引退後に彼が経営していた秋田のスポーツ用品店。「実はまだ骨がくっついておらず、ドクターストップがかかっていた。案の定、ケガは悪化し、投手生命を縮めるはめになってしまいましたから…」。通算30勝のうち20勝は82年の1シーズンで稼いだものだ。こうした奇襲のツケ以上に彼が悔いていたのが、「マウンドを途中で降ろされた」ことである。「まだ1点も取られていないんですよ。ここまで引っ張っておきながら何で代えるのか。マウンド上で親分とケンカになったんです。ここで降りるのは嫌だと…」 親分が工藤に代えてマウンドに送ったのは絶対的な守護神・江夏豊。広岡西武は江夏対策を練りに練っていた。江夏の足元を揺さぶるためプッシュバントを多用して塁を埋め、スクイズと見せかけて四球を選びとった。当事者の黒田正宏は語ったものだ。「僕はベンチを出る際、広岡さんに“監督、スクイズの構えをさせて下さい”と了解をとった。なぜなら南海で2年間バッテリーを組んだ経験から、アイツが瞬時の判断でスクイズをはずせることを知っとったからや」。8回裏、西武は一挙6点を奪い勝負を決めた。心肺面に不安を残す江夏を右へ左へと走らせた西武の江夏攻略策こそが奇襲だったと見ることもできる。 この3日後にも工藤は先発し、7安打1失点で完投勝利を収めた。親分への反発をモチベーションに変えたのである。「余計なこと(芝居)やらなくてもねぇ…」。以上が奇襲秘話だ。体の線は細いが肝っ玉の据わった男だった。合掌。

400人が別れ惜しむ 元日本ハム投手 工藤幹夫さん (55、本荘-本荘南) 葬儀。

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元日本ハム投手 工藤幹夫さんが5月13日、肝不全のため秋田市内の病院で死去。

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秋田県高校野球ライバル物語 高松直志(能代-山本) vs 工藤幹夫(本荘-本荘南)。

takamatukudou元日本ハム投手の工藤幹夫さんが2016(平成28年)5月13日、肝不全のため秋田市内の病院で死去、55歳。告別式は18日午後1時から、秋田典礼会館セレモで、喪主は長男工藤壮史さん(秋田商硬式野球部OB、城東中時代Akita中クに選抜)。工藤さんは78年ドラフト2位で本荘から日本ハムに入団。4年目の82年には先発として20勝4敗、防御率2・10の好成績を残して最多勝、最高勝率、ベストナインを受賞。その後、右肩を痛めて88年には野手へ転向も、その年限りで現役を引退。通算成績は78試合に登板して30勝22敗、防御率3・74。東北の星飛雄馬高松直志(NTT東北-能代-山本)と大型サブマリン工藤幹夫(日本ハム-本荘-本荘南)。昭和53年第60回大会(PL学園優勝)の秋田大会決勝は秋田県高校野球史に残る好ゲームとなった。プロも注目する2人の投げ合いは6回に波乱があり、接戦の末3-2で能代高松に軍配。高松直志と工藤幹夫は中学時代からサウスポーの本格派とアンダーハンドの好投手として期待されていたが、工藤は本荘南中時代に東北中学大会の優勝投手(3試合連続完封)に。高松の劇画の星飛雄馬バリのの右足を高く上げるダイナミックなフォームと工藤のしなやかな体と長い手から繰り出される華麗なフォームは全国的に注目を集めた(高松は甲子園大会終了後日本選抜チームの一員として訪韓)。今思えばこの両チームに打撃力があれば甲子園でも上位に勝ち進めたと思う。(敬称略) ※平成8年9月発行「熱球通信」から再掲。

<秋田県野球人名録> 竹内一朔 元五城目高校長(秋田高校野球部長等歴任)。

平成27年7月20日大動脈狭窄のため秋田市内の病院で死去
編集委員として秋田県高等学校野球史 「翔球」(平成3年8月刊) 発刊に尽力
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<秋田県野球人名録> 社会人野球発展に心血 岩見茂元秋田県野球協会長(79)。

平成27年5月22日肝臓がんのため秋田市の病院で死去
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<秋田野球人名録> 米球界に挑戦 吉成昭三スイッチピッチャー(巨人-秋田商)。

中学同期に飯塚明元秋田市副市長(昭和40年秋田高硬式野球部主将)
秋田南中時代(左投手)全県出場、秋田商進学後本格的に右投手に。
「この腕がつきるまで 打撃投手、もう一人のエースたちの物語」(澤宮優)
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<秋田野球人名録> 秋田南高校草創期野球部監督 宮本榮先生(五城目監督歴任)。

秋田南高野球部監督(昭和38年~44年)、秋田高サッカー部顧問歴任
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<秋田野球人名録> 甲子園7度出場 古城敏雄 元秋田商、秋田経大付野球部監督。

古城敏雄 元秋田商、秋田経大付野球部監督
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<秋田野球人名録> 甲子園7度出場 古城敏雄 元秋田商、秋田経大付野球部監督。

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平成23年度 秋田市南部公民館文化講演会 「我が野球人生 - 花も嵐も乗り越えて」。

hurukikantoku古城敏雄氏(元秋田商、経大付野球部監督)。2015(平成27年)8月25日午前3時8分、ぼうこうがんのため秋田市の病院で死去、80歳。葬儀は29日午前11時から秋田市寺内字三千刈238-1、こすもす中央ホールで。喪主は長女の夫村井成人さん。57年から秋田商高監督。58年夏、同校を23年ぶり甲子園に導き、60年センバツで4強に進んだ。専修大監督を経て79年から経大付高(現明桜高)監督を務め、81年センバツで8強入り。両校の監督計9年で甲子園に7度出場した。元教諭。【20119.28】平成23年9月30日(金)秋田市南部公民館文化講演会 「我が野球人生-花も嵐も乗り越えて」(講師/古城敏雄氏)。【2011.3.11】 秋田市民文化講演会 平成23年3月12日(土) 古城敏雄氏 「人それぞれの甲子園~勝ちを呼んだおにぎり」。【2010.2.28】 古城敏雄氏の喜寿を祝う会。伝説の赤根谷飛雄太郎監督の後任として秋田商の監督に就任して以来、石戸四六、今川敬三投手、成田光弘捕手等、また専修大監督退任後に秋田経大付監督に転じてからは松本豊投手等を育てた。

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