★ 備忘録 「熱球通信」 ・ 特定非営利活動法人秋田県野球フォーラム ★

熱球通信は、NPO法人秋田県野球フォーラム会員有志による備忘録を兼ねた「秋田県野球」にこだわった私的ブログで、記録等については公式なものではありませんのでご注意願います。リンク等についてはオールフリーですので事前のメール等は一切不要です。、更新頻度は原則毎日ですが、秋田県出身で県外に在住の方も念頭に更新していますので、内容等一部については地元情報より遅れる場合があります。練習試合の結果情報は原則掲載しません。また、コメント送信欄と掲示板については諸般の事情により対応していません。中学硬式野球・女子野球の紹介に努めています。

プロ野球

日本高等学校野球連盟 2020プロ野球志望届 (北海道・東北地区) 提出者一覧

明桜 佐々木湧生投手 プロ志望高校生合同練習会参加(9/5~ 東京ドーム)
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http://www.jhbf.or.jp/pro-aspiring/2020.html
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ベースボールマガジン/ 週刊ベースボール2020.9.28 / ドラフト候補大特集

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ベースボールマガジン/ 週刊ベースボール2020.9.21 / 変化球特集魔球奥義

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平成28年9月 / DeNAマネジャー統括兼GM補佐 浅利光博氏(角館)が死去

asari<2016.12.31> 現在、福岡ソフトバンクホークスでコーチを務めている入来祐作氏(平成8年のドラフトで本田技研工業から読売ジャイアンツを逆指名して1位入団)が戦力外通告を受け、どこからもオファーがなく困っている時に手を差し伸べたのが、横浜入団時の編成担当者の浅利光博氏だった、打撃投手の話を打診されそれを引き受けた。2016.9.11】浅利光博氏 (DeNAマネジャー統括兼GM補佐)が 平成28年9月10日午後11時35分、胃がんのため横浜市内の病院で死去、61歳。新人テストで120人の難関を突破してプロ入り。【2006.6.02】横浜の浅利光博運営部長は6月2日、東京都内のセ・リーグ事務局を訪れ、前日のソフトバンク戦で審判の判定が食い違ったことに関して 「提訴試合」 としての申請を行い、試合のやり直しを求めた。リーグでは週明けにも受理するか却下するかを決める。9回一死一塁で横浜多村が放った三塁線のゴロを鈴木三塁塁審はファウルとしたが、渡田球審がフェアと判定。ボールは二塁→一塁と転送され併殺が成立、試合が終了した。横浜牛島監督が渡田球審に審判間の協議を求めたが受け入れられなかった。

ベースボールマガジン社/ 週刊ベースボール2020.9.14 / 2020熱パ快走

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今年育成契約3年目/ プロ野球秋田県関係選手 広島 藤井黎來投手(大曲工-美郷)

52525ウェスタンリーグ令和2年9月1日現在、8試合登板0勝0敗投球回数10打者43被安打6四死球78奪三振2失点自責点1、防御率0.9・「本当に今年が最後のシーズンだという、危機感を持って毎日投げています」育成選手としてプロ3年目のシーズンを迎えた藤井黎來(れいら)は、誰よりも強い決意を持って、2020年のシーズンを戦っている。右腕が誇る最大の武器は、ストレートと落差の大きいフォーク。春季キャンプでは主力打者から三振を奪うなど、球の精度を高めていけば一軍の舞台でも十二分に通用する球であることを証明した。「とにかく低め低めにという意識でやっています。自分の持ち味はフォークです。ストライクも取れて空振りも奪えるフォークが理想ですね」3月25日のヤクルト戦では練習試合ながら、一軍クラスの主力相手に1回を無失点に抑えると、二軍ではここまで8試合に登板し防御率0.90をマーク。念願の支配下登録に向けて猛烈アピールを続けている。「ここまで実戦での感覚は決して悪くありません。もっともっと結果を求めていきたいけど、自分の場合それと平行して内容も求めていかないといけません」育成契約は原則として3年契約。藤井にとっては今季が勝負の年となる。崖っぷちに追い込まれた男はここから下克上の投球を見せていく。https://www.hiroshima-athlete.com/list/magazine

ベースボールマガジン社/ 週刊ベースボール2020.9.7 / グラブ大鑑2020

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平成28年8月 / プロ15年目で通算150勝 金田、松岡に続く球団史上3人目

e2c8351b2020シーズン6月19日対中日戦で開幕投手、40代としては22年ぶり史上5人目。2020.8.26現在、5試合先発登板0勝2敗、投球回数24.1、被本塁打3、防御率5.55.通算171勝165敗。<2016.8.28> 平成28年8月27日 ヤクルト5-2阪神(甲子園)。ヤクルト先発石川雅規投手(36、秋田商-秋田北)が、8回2/3を6安打2失点で、通算150勝を達成、プロ48人目。金田正一、松岡弘に続く球団史上3人目の偉業。プロ15年目で金字塔を打ち立てた。「僕1人では、達成できない。応援してくれる妻、2人の子ども。ルーキー時代から使ってくれた監督やコーチ、裏方さん。僕らは1人ではグラウンドに立てない」 と感謝の言葉を並べた。平成8年秋田商2年時の秋季秋田市内リーグ戦で敗戦処理扱いで登板して更に大炎上した場面に遭遇した観客の1人としてはプロ通算150勝達成は万感の思い。

日刊スポーツ/保坂恭子がプロ選手に聞く/ヤクルト 石山泰稚投手 転機は打撃投手

a4149dd0各界のプロフェッショナルの子ども時代や競技との出会いなどに迫る「プロに聞く」。今回は、ヤクルトの守護神を務める石山泰稚投手(31)です。小学校のクラブ活動で4年生から始めた野球。投手でも、レギュラーでもなかった中学時代。そして金足農での転機と、決して野球エリートではなかった歩みを追います。キャッチボールを、練習を、野球を、全力で楽しもう!野球人生の出発点は「楽しい」だった。旭北小低学年から少林寺拳法を続けていた石山は、クラブ活動で何部に入ろうかと考えた。バスケットボール部か、サッカー部か…。でも相談した父親からは「野球だったらいいよ」の答えが返ってきた。「クラブ活動をしないと友達も増えないですし、暇だから野球やろうかなと思いました」。小4でのこの決断が人生を左右することになるとは、全く思っていなかった。初めてのキャッチボール、ノック。毎日の練習は、とにかく楽しかった。試合にも出場したが、思い出せるのは負けた記憶ばかり。「めちゃくちゃ弱かったです」と笑う。当時のポジションは、二塁手や遊撃手。試合に負けても、悔しさよりプレーできるうれしさの方が勝っていた。「友達と一緒にやるのが楽しくて、好きでしたね。友達と遊んでいるみたいな感覚でした。練習も、きつくはなかった。楽しかったです」。この気持ちが、野球を続けるきっかけになった。運命は、野球と出会った時からつながっていたのかもしれない。小学校で、初めてもらった背番号が「22」だった。「大魔神」佐々木主浩、ヤクルト高津(現監督)らが背負った守護神の系譜ともいえる背番号。テレビの野球中継に映る大魔神の背中は、大きく輝いて見えた。「たまたまテレビで見て、同じ背番号というだけですごいなぁとずっと思っていました」と振り返る。小学校時代のチームメートが続ける流れで、山王中でも野球部に入った。強肩を買われて三塁手だったが、レギュラーではなかった。ブルペンに行くことはあったがマウンドではなく、なんとブルペン捕手。チームは弱く、県大会も1回戦、2回戦での敗退が多かった。「僕の中では、そこまで自分がうまいと思っていなかったんです。1学年下の選手が上手だったし、だからそこまで悔しいという気持ちもなかった。将来プロ野球選手になる目標なんて、全然です。どこの高校に入れるかな、くらいでした」と苦笑いだ。中学でもたまに投手を務めることはあったが、コーチの勧めもあって進学した金足農で本格的に転向した。そこで、打撃投手という役割に巡り合った。先輩打者との真剣勝負。直球だけでなく、変化球も交ぜてぶつかった。「先輩と対戦して、本気で投げて、本気で打たれていました。それが楽しかった。抑えたら、先輩に『よっしゃー!』みたいな感じになったし、打たれたら逆に先輩に言われたりしていました」。打者を抑える投手の喜びに、目覚めた。東北福祉大、ヤマハを経てプロの道へ進んだ。高校以降は厳しい練習もあり、やめようと思ったこともあった。それでも続けてきたから、今がある。プロ野球選手の立場から、子どもたちに伝えたいことは「楽しいと思ってやるのが一番」という考えだ。「なるべく野球を嫌いにならないように、そういう工夫をして、保護者の方や指導者の方にやらせてもらえたら、いいんじゃないかなと思います。僕は、子どもの頃、ずっと楽しかった記憶しかないので」。毎年、オフには同じ秋田出身の先輩投手・石川と地元で野球教室などで子どもたちと交流する。それも「楽しいことを伝えたい」という。野球を始めるずっと前、幼稚園生の頃に書いた将来の夢は「プロ野球選手になる」だった。任されている守護神は、重大な責任とプレッシャーのかかるマウンドに立つのが役目。仕事を果たせば、待っているのは歓喜の瞬間だ。「勝つのが一番だと思っている。僕が打たれても、チームが1点でも多く取っていて最後に勝てるように、勝つ試合を見せたいといつも思っています」。チームのために、腕を振る姿を通じて、野球の楽しさを伝える。【保坂恭子】◆石山泰稚(いしやま・たいち)1988年(昭63)9月1日、秋田県生まれ。小4時に旭北小スポーツクラブで野球を始める。金足農では2年春からベンチ入りし、同秋からエース。3年夏には県8強。東北福祉大-ヤマハを経て、12年ドラフト1位でヤクルト入団。1年目から60試合に投げ、10セーブ21ホールド。18年には自己最多の35セーブをマークした。今季推定年俸8000万円。182センチ、75キロ。右投げ右打ち。

「熱球通信」 リレートーク <平成7年高校生編> 後藤光尊選手 (秋田-八郎潟)

オリックス 後藤光尊コーチ 配置転換 1軍打撃コーチ→2軍打撃コーチ
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ユニークキャラで記録ホルダー / 菅原勝矢投手(巨人-東京農大中退-鷹巣農林)

bc87349b-s<スポーツ紙紹介、一部略> 長い巨人の番記者生活で、この男ほど波瀾万丈の道を歩んだ選手を知らない。菅原勝矢投手、秋田県立鷹巣農林高から東京農大を経て、昭和41年に巨人に入団、現役8年間で33勝8敗、防御率2.98という成績を残している。秋田県大館市の農家に10人兄弟の9番目として生まれた。兄弟で高校へ進学したのは彼ひとりという極貧の環境だったが、「どうしても野球がしたい」 と東京農大へ。ところが、1年目の春のリーグ戦に3勝をあげ、素質を見抜いた巨人の青木宥明スカウトにくどかれると、家計を助けたいと大学をスパッと退学、プロの水に飛び込んだ。ずんぐりむっくりの体形、赤い頬、ズーズー弁、まるで砲丸投げのようなぎこちない投法・・・・。チームメートだけでなく、番記者からも好かれるキャラクターだった。ニックネームは 「ガービー君」 。東北なまりが消えず、「カーブ」 が 「ガービー」 に聞こえるからだった。入団当時は速球だけだったが、カーブ、スライダーと球種を増やすにつれて成績も上昇し、41年に初勝利、42年には11勝4敗という好成績をマークしている。この間、なぜか菅原には珍記録がついて回った。まず、プロ入り初登板だった41年8月21日のサンケイ戦で、初勝利が完封勝ち。神宮球場が初めてなら、ナイターも初体験だった。2勝目となった42年5月15日の阪神戦は、ノーヒットノーラン目前の1安打(1四球)完封という離れ業だった。さらに意外だったのは5年がかりの11連勝。これだけ間隔をあけながらの記録だと、うっかり見過ごされかねないほど、珍しい記録といえる。巨人投手の連勝記録は松田清の19連勝、初登板から無傷の連勝としては41年の堀内恒夫の13連勝だが、いずれも短期間でマークしたもの。菅原のような例はあまりない。理由は簡単。活躍→抜擢→故障→空白→活躍→このサイクルの繰り返し。さまざまな故障に泣かされ、ブランクは長かったが、久々に登板となってもなぜか負け投手だけにはならなかった。ついているのかいないのか? まったく不思議な男だった。その11連勝は43年から始まった。6月30日の大洋戦完封勝ち(後楽園)が華々しい? スタート。ところが2連勝目が9月21日の中日戦(中日)。なんと84日ぶりの白星だった。この間、菅原は原因不明の故障に悩まされていた。背中の筋肉が硬くなり、投げているうちに「背中がつる」(筋肉の収縮現象)のである。「人には説明できないですね。いくら話しても実感してはもらえないでしょう」 と、菅原は童顔を曇らせるだけだった。それでも体調がよくなった秋には、阪神戦(9月28日)、広島戦(10月10日)と連勝を伸ばしてみせる。「もう大丈夫。ローテーションの一角をまかせる」 と、川上監督を喜ばせた44年と45年には勝ち星なしの2軍生活。理由は前回と同じ背中の筋肉がつる奇病だった。大学時代から交際していた美代子さんは44年、結婚したとたんに近所のお地蔵さんに通うのが日課になってしまった。そして46年後半に4連勝すると、47年は開幕からエンジン全開で4月22日の3勝目で、延べ11連勝をマークした次第。もうひとつの珍記録がある。これは42年8月15日の阪神戦(後楽園)だった。8回2死から金田正一投手が負傷降板し、菅原がリリーフ。藤田平を1球で左飛に打ち取った。その裏、巨人は2点を取って逆転。打順が回ってきた菅原には代打が送られ、9回は中村稔が抑えた。これにより38年8月21日の近鉄・ミケンズ、41年8月26日の中日・坂東英二に次いでの 「1球で勝利投手」 に。

ユニークキャラで記録ホルダー / 菅原勝矢投手(巨人-東京農大中退-鷹巣農林)

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プロ在籍 / 1991 平成3年度シーズン 秋田県関係プロ野球16選手(順不同)

オリックス 西村徳文監督辞任 中嶋聡2軍監督(51)監督代行に

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2020年8月20日 / 進藤拓也投手(西仙北)セ・リーグ 公式戦対広島戦登板

9回 長野空振り三振、鈴木誠ショートフライ、松山低めのストレートで空振り三振
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2020年8月20日 / 進藤拓也投手(西仙北)セ・リーグ 公式戦対広島戦登板

JR東日本-横浜商大-西仙北-協和
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ベースボールマガジン社/週刊ベースボール2020.8.31/12球団2カ月診断

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NPB日本野球機構と日本高校野球連盟 共催で高校3年生救済の合同練習会実施

nphttps://hochi.news/articles/20200817-OHT1T50142.html 日本野球機構(NPB)は8月17日、プロ野球入りを目指す高校3年生の救済措置として開催する「プロ志望高校生合同練習会」の中継予定を発表<2020.6.25> 日刊スポーツ/ プロ志望届を提出する高校生の希望者を対象に、NPBと日本高野連による「合同練習会」が実施されることが6月25日、決まった。この日の日本学生野球協会の理事会で、日本高野連からの申請が承認された。プロを目指す高校生を対象としたトライアウトとも呼べるものになりそうだ。詳細は今後、NPBと日本高野連の両事務局で詰め、7月20日前後に要項を発表するが、紅白戦なども行われる見通し。2軍の指導者が高校生を相手にノックなどを行うことも考えられる。期日は、8月29、30日、9月5、6日、12、13日の3つの週末を確保。1泊2日で行う。東西で1回ずつを想定しているが、参加希望者が多い場合は3回目を検討する。新型コロナウイルス感染拡大により、センバツ、春季大会、夏の選手権が次々と中止。各都道府県の独自大会は準備が進んでいるが、今の3年生は公式大会の機会が大きく奪われた。日本学生野球協会の内藤雅之常務理事は「救済措置の意味が大きい」と話した。さらに「独自大会は、地域によってNPBのスカウトが行けないところもある。3年生部員の進路保証の観点から、平等性に欠ける」と説明した。都道府県によって、スカウトの入場が認められるところと、認められないところが出てくる。平等性を確保するため、日本高野連側からNPBに対し合同練習会を提案したという。なお、プロ志望届は例年、夏の甲子園終了後から受け付けを開始していたが、今年は8月1日から受け付ける。合同練習会は、同21日までに志望届を提出し、かつ参加を希望する高校生を対象とする。

ベースボールマガジン社 / 週刊ベースボール 2020.8.24 / 外国人選手名鑑

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スポニチ紙 / ミスターロッテ 有藤通世氏 昭和39年夏第1打席で奪われた甲子園

arit<スポーツニッポン>スポニチの野球評論家が、自身の忘れ得ぬ試合やシーンを振り返る「我が野球人生のクライマックス」。第5回は有藤通世氏(73)。高知3年の1964年に出場した夏の甲子園1回戦、秋田工戦で顔面に死球を受けた。たった1打席で高校最後の夢舞台でのプレーを奪われた。チームは高知県勢初の優勝を飾ったが、悔しさだけが残った。その反骨心こそ、「ミスターロッテ」と呼ばれた野球人生の礎となった。(構成・君島圭介)その瞬間の記憶はない。ただ、2ボール2ストライクからの5球目だったことは覚えている。「気がついたらベッドの上だった」。高3で迎えた夏の甲子園1回戦、8月12日の秋田工戦。高知の4番でエースだった有藤は、初回の第1打席で顔面に死球を受け、救急搬送された。歯が3本折れ、唇を3針縫う重傷だった。それでも戦いたかった。意識が回復し、直訴した出場は却下された。14日の花巻商(岩手)戦に勝ち、迎えた16日の準々決勝は平安(京都)戦。衣笠祥雄を擁する優勝候補で、これが最後の試合になると思った。有藤は「ベンチ入りだけでも」と懇願したが、それさえも受け入れてもらえなかった。「病室で駄々をこねた。甲子園に憧れて必死にやってきて、しかも最後の夏なのに戻れないのはつらかった。体は動いたからね」皮肉にも大黒柱を欠いたチームは一丸となって高知勢初の全国制覇を成し遂げた。だが、病室の有藤には「悔しさ」しかなかった。甲子園終了後はチームと一緒に帰れと命じられた。「退院させるなら試合に出してほしかった」。さらに高知に戻ると優勝パレード。「嫌だ」と断った有藤も強制的にパレード車に乗せられた。「入院も優勝パレードも結局は大人の都合だよね。球児の、僕の甲子園を何だと思ってるんだと思ったね」失意の有藤にチームメートの言葉が追い打ちをかける。「おまえは全国制覇に貢献してないじゃないか」。高校生の軽口だった。だが、この言葉が有藤の野球人生を変えた。「本当に悔しくて。だから絶対に日本一になってやろうと決めたんだ。日本一を経験して、ようやくこいつらと同等だとね」

有藤道也氏 スポニチ 「我が道」 昭和39年夏甲子園大会初戦対秋田工戦初打席。

aritou<2016.1.23> オーナーは「ミスターロッテ」だ。本拠地・QVCマリンフィールドの最寄り駅である海浜幕張駅前に、通算2057安打を記録した有藤通世氏のお好み焼き店「有賀藤(ありがとう)」がある。20年以上続く知る人ぞ知る店。ロッテの「あるあるネタ」を集めた本「千葉ロッテマリーンズあるある」(鈴木長月著、TOブックス)にも「有藤さんのお好み焼き屋“有賀藤”にも一度くらいは行っとかなきゃ、と思う」という「ロッテファンあるある」が載っている。店長は有藤氏の長男・英世さん。「特にデーゲームのときは試合後にファンの方が来てくれる。負けたときも “やけ酒” したりね」と笑顔を見せる。10年に日本一に輝いたときは30%オフの優勝価格で営業し、長蛇の列ができたという。英世さんも中学まで野球をしていたが、父からの「おまえは無理だ。辞めておけ」という助言で野球はきっぱり諦めた。「今思うと辞めて正解だった。(店で)人と話すのが好きなんで」と、カウンターでお好み焼きを焼きながら話していた。店名は言うまでもなく「有藤」をもじったものだが、「(父から)“ありがとうという感謝の気持ちを忘れるな” というのはよく言われていた」。驚くのは有藤通世氏の夫人・由香さんの著書「土佐のいごっそう有藤通世 母に贈る2000本安打」が店内に置かれ、希望者は持ち帰れること。さらに、レジの脇には有藤氏の直筆サイン入り野球カードが「お土産」として置いてある。店に足を運んでくれるロッテファンに対する「ありがとう」の表れだ。前述の「土佐のいごっそう―」を読むと、有藤通世氏の母は八重子さん、生まれたのは午前8時、背番号は8。8に縁がある。そして今季、球団の生え抜き選手では85年の有藤氏以来となる2000安打を狙うのが40歳の福浦だ。積み重ねた安打は通算1912安打で、残り「88」というのも8に運命を感じる(記者コラム・渡辺剛太)。<2011.3.03>「気がついたら病院のベッドだった。朦朧とした意識の中で記憶をたどる。たしか野球をやっていたような、、、、。そうだ、甲子園だ」「昭和39年8月12日、全国高校野球選手権大会1回戦、秋田工(西奥羽)戦の1回裏だった。高知高校(南四国)4番の私は一死一、三塁の場面で憧れの甲子園初打席に立った」「二死無走者となっての5球目。秋田工のエース三浦健二の投球が顔面を直撃した。私は血を吹いて転倒。前歯が3本、歯茎から飛んだ。」「甲子園初打席で顔面に死球を食らって前歯を3本折り、病院に送られた1964年(昭和39年)の夏。高知高校(南四国)は快進撃を続けながら、最後までベンチに戻してもらえなかった」。有藤選手はプロ入り後も定期的に秋田県を訪問する等秋田とは縁の深い選手だった。

ベースボールマガジン社 / 週刊ベースボール 2020.8.17 / 最強世代を探せ

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ベースボールマガジン社 / 週刊ベースボール 2020.8.10 / 風を切り裂け!

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秋田市立秋田商業高校投手陣黄金期 三浦清投手(慶応大-日本石油・大昭和製紙)

kiyoi秋田南中1期生。何よりも人材が揃っていた秋田商の同期三平晴樹投手 「3年の時は三浦清投手を擁して優勝間違いなしといわれたチームでした。春の全県選抜で優勝、さらに東北大会でも優勝しましたからね。」、急病で倒れた赤根谷飛雄太郎監督の後任佐川吉十郎監督 「当時のメンバーだったら全国の上位に進出しても何らおかしくはなかった。」 夏の県予選準決勝で秋田に1-2で惜敗し全国大会出場は逃がす。慶応大進学直後に結核で半年間入院、復帰後は主力投手となり、伝説の早慶66連戦にも先発。プロに誘われたが、利き腕の右肘を痛め断念、社会人野球の名門日本石油4年、大昭和製紙で1年プレーして現役を引退。1学年上に嵯峨健四郎投手(東映)、同期に三平晴樹投手(大毎)、1学年下に佐々木吉郎投手(大洋)。

秋田さきがけ紙 「秋田市営八橋球場50年-球史を彩った男たち」 三平晴樹投手

三平晴樹投手(阪急-大洋-大毎)平成28年7月25日逝去
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元プロ野球三平晴樹投手(秋田商)の孫 渡部淳一投手(慶応大、東京神宮シニア)

慶応義塾高校で甲子園出場
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ベースボールマガジン社 / 週刊ベースボール 2020.8.3 / ドラフト中間報告

8.03

ベースボールマガジン社 / 週刊ベースボール 2020.7.20 / 誇り高き四番論

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ベースボールマガジン社 / 週刊ベースボール 2020.7.13 / 不滅の巨人軍史

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