★ 備忘録 「熱球通信」 ・ 特定非営利活動法人秋田県野球フォーラム ★

熱球通信は、秋田県野球フォーラム会員有志による備忘録を兼ねた「秋田県野球」にこだわった私的ブログで、記録等については公式なものではありません。リンク等オールフリーですので事前のメール等一切不要です。、更新頻度は原則毎日ですが、秋田県出身で県外に在住の方も念頭に更新していますので、内容等一部については地元情報より遅れる場合があります。練習試合の結果情報は原則掲載しません。また、コメント送信欄と掲示板については諸般の事情により対応していません。中学硬式野球・女子野球の紹介に努めています。

ライバル物語

秋田県高校野球ライバル物語 / 成田 昇(能代-峰浜)-村上鉄也(能代-鷹巣)。

murakami【2014.11.06】プロ野球楽天球団は2014 (平成26年) 11月1日付で組織変更と人事異動を行ったと発表。組織変更ではチーム統括本部の 「スカウト&ディベロップメント部」 を廃止し、「育成部」 と 「スカウト部」 を新設。秋田県関係者人事異動、村上鉄也チーム統括本部管理部管理グループ1軍マネジャー。【2010.1.12】能代成田の陰に村上あり 成田昇(日本大-能代-峰浜)-村上鉄也(東北福祉大-能代-鷹巣)。1992(平成4年)春季全県大会出場の能代高校成田昇投手をチェックに来たプロのスカウトは、2番手村上鉄也投手の重い速球に驚かされた。この年の能代高校は好素材が多く、他にも主将で捕手の加藤や大塚大、菊地、土崎、池端等の大型選手(180cm以上6人)が揃い、「甲子園優勝」に近いチームであった。仙台育英竹田監督 (当時) も「夢のチーム」と評価。投手の主戦格はキャリアと安定感のある成田、峰浜中時代から本格派右腕として注目され、全県と東北大会制覇。高校入学後の故障がなければ全国有数の投手になっていた。村上は3年になって急成長し、成田以上の球速で大型投手として俄然注目を浴びた。制球に課題はあったもののその素材はスカウト受けしていた。平成4年夏能代高校は甲子園初戦で佐賀東に勝利し、久しぶりの校歌を聞いたが、実力からしてもっともっと勝ち進んでいいチームだった。(敬称略、平成9年4月発行「熱球通信」からの再掲)

秋田県高校野球ライバル物語 / 成田 昇(能代-峰浜)-村上鉄也(能代-鷹巣)。

- レギュラー平均 177.7cm 73.5kg  -
599

<秋田県高校野球ライバル物語> 秋田商 高山郁夫(花岡)-安保浩幸(八幡平)。

akisho2020シーズン オリックス1軍ヘッドコーチ。【2017.10.29】オリックスは10月29日、新コーチングスタッフを発表、1軍には高山郁夫投手コーチ (55) が復帰。【2015.10.04】秋田県北地区からやってきた秋田商2人の好投手。昭和55年10月第35回国体硬式野球競技(宇都宮市)1回戦対広陵戦で秋田商主将安保浩幸はマウンドに上がっていた。7回表一死一、三塁の場面。先発山内をリリーフしてのもので、これが春季全県大会準決勝対金足農戦(5イニング)を投げて以来の背番号1をつけた高校野球最後のマウンドだった。この大会、秋田商は投打(特に打線)がうまくかみ合い準優勝に輝いている。昭和53年秋の秋田市内リーグ戦で秋田商ベンチには一際背の高い高山郁夫がいた。ヒョロっとして体は出来ていなかったが、とても印象的なシーンだった。高山は中学時代、県大会地区予選決勝で戸田投手(大館鳳鳴)の大館一中に3-11で大敗し(大館一中は全県準優勝)、中学時代はそれほど脚光を浴びなかった。その戸田投手とは高校時代、公式戦で3度対戦しているが、特に高3年夏の3回戦(戸田も好投)であわやノーヒットノーランの13奪三振で知名度が全国区となった。安保の方は、八幡平中時代から注目の下手投げの好投手として中学での実績は高山より上であった。秋田商入学後もすぐに頭角をあらわし、高1秋の県大会で好投(優勝)。2年からは高山とチームの柱となり、夏県大会決勝で大館商を完封し甲子園出場(甲子園では高山-安保のリレーも広島商に2-5で敗退)。同年秋には2枚看板が完全に定着し、安保は主将でエースナンバー、高山は背番号11のエースに。東北大会は初戦安保が先発、次戦は高山先発。決勝は高山-安保のリレーで元西武の安部他の強力打線東北を7安打(試合は2-4で準優勝)。翌年の春センバツ初戦は高山の140km代の速球が冴えて6-1 で鹿児島商工に快勝。2回戦対静岡戦は安保先発で初回に3ランを被弾、急遽の高山のロングリリーフ、延長10回打線の爆発で9-3でベスト8入り。準々決勝は伊東(ヤクルト)の帝京に0-2で敗戦も打線は帝京を上回る8安打、高山も被安打5の好投で背番号11のエースとしてプロ注目の投手に。秋田県民期待の最後の夏。予選はほとんど高山が登板、決勝で強打の能代を退け3季連続で甲子園へ。安保は不調のため秋田大会での出番はなかったが、主将としてまた一塁コーチャーとして選手に声をかけ続けた。そして迎えた甲子園初戦、田川には辛勝したが次戦瀬田工布施に打線が沈黙し、高山もいつもの球速が見られず0-3で敗戦、2人の夏が終わった。(敬称略) ※以上平成9年12月発行「熱球通信」よりの再掲。

高校野球ライバル物語 / 田中亮 (秋田経法大付) vs 田中淳一 (秋田経法大付)。

d80fbe90【2016.7.13】社会人野球オールフロンティア(埼玉県野球連盟)秋田県関係選手、田中亮(監、秋田経法大付)、佐藤雄馬(投、明桜)、高橋京介(投、本荘-青山学院大)、棈木裕亮(捕、明徳義塾-ノースアジア大退)、伊藤広大(捕、秋田南-東北福祉大)、須田佑太朗(外、明桜-東北福祉大)、大森亮(外、秋田経法大付-ノースアジア大)。・私はショート田中に田中を見た!田中淳一(経法大付) vs 田中亮(経法大付)。平成8年夏の甲子園秋田経法大付の田中淳一選手を観ていて、同じ守備位置だった先輩田中亮と共通点が多いことに気づいた。田中淳一は下北手中初の甲子園レギュラーだが、田中亮は山王中出身で昭和62年水沢投手を擁して甲子園出場を果たした時(対北嵯峨戦)に2年生ながら先発出場、守備範囲の広いフィールディングで何度も投手陣を助けていた。高3年時は3番打者として頑張ったが甲子園連続出場は成らなかった。卒業後は住友金属鹿島で遊撃手として頑張っている。ざっと思いつくままに両選手の共通項を挙げると、(1)同じ田中姓、(2)右投げ左打ち、(3)守備範囲が広い、(4)俊足、(5)甲子園で2番打者、(6)野球選手としては小柄、(7)野球センスがいい、(8)甲子園出場に貢献、(9)甲子園では期待以上には活躍できなかった、(10)いマスク(?)等々。同校に、続く第3の田中姓の選手の出現が待たれる。(敬称略) ※平成9年1月「熱球通信」からの再掲。<昭和63年夏 秋田経法大付登録選手>[投]千葉和之(3、角館)、[捕]嵯峨猛(3、山王)、[一]安保勲(2、花輪一)、[二]冨田和博(3、井川)、[三]松岡勇樹(2、二ツ井)、[遊]田中亮(3、173/65、山王)、[左]今野新二(3、豊岩)、[中]○会田昌希(3、新栄)、[右]鈴木淳(3、山王)、藤田順悦(3、八森)、三浦孝仁(秋大付)、川尻英保(2、東能代)、佐藤義仁(3、土崎)、成田昌也(3、土崎)、小柴正徳(3、安行東)、京極直人(2、秋田南)、桜庭裕也(1、鷹巣)、[部]古谷孝男、[監]鈴木寿 。<成8年夏 秋田経法大付登録選手>[投]金沢博和(3、花輪二)、[捕]谷地村真人(3、秋田西)、[一]○富樫栄(2、城南)、[二]千葉大祐(3、飯島)、[三]菊地剛(3、東仙台)、[遊]田中淳一(3、165/59、下北手)、[左]熊谷洋介(3、中仙)、[中]森元敦宏(3、千畑)、[右]児玉寛人(3、花輪二)、鎌田祐哉(3、秋田北)、鈴木智(3、横手南)、加藤航(2、花輪一)、大野守(3、山田)、高田将之(3、花輪一)、菅将人(3、雄勝)、夏井佑介(3、飯島)、小林利仁(3、天王南)、三浦怜也(3、神代)、[部]古谷孝男、[監]鈴木寿、[記]草彅春樹(3、豊成)。

高校野球ライバル物語/中嶋聡(鷹巣農林)-川村健司(秋田工)-高田環樹(秋田)。

2019中嶋聡オリックス2軍監督 津谷永光北秋田市長訪問
sima

秋田県ライバル物語 / 高校時代無名の両選手 プロで対戦 山田久志-落合博満。

落合博満選手 昭和28年12月9日生

<秋田県高校野球ライバル>阿部茂樹捕手(秋田) vs 能登谷和明投手(秋田西)。

abenotoya能登谷和明投手 BALL PARK AKITA <ドラフト候補> で紹介【2017.2.10】阿部茂樹捕手、2001年に現役引退、ブルペン捕手を経て2013年から東京ヤクルトスワロ-ズスコアラー。【2011.2.18】「無失点男」 能登谷和明 (TDK-秋田西-秋田西) vs 「大物君」 阿部茂樹 (巨人-秋田-大潟)。平成2年夏の甲子園秋田大会準々決勝は、古豪の秋田と創部12年目の新鋭秋田西の対決となった。秋田西には無失点記録継続中の能登谷和明、秋田には1年から4番の大型捕手阿部茂樹がおり、赤沼、小野監督が師弟関係ということも重なり注目の対戦に(両校、秋田北中・大潟中出身多数)。2人ともプロが狙う逸材であったが、結果は能登谷が阿部には二塁打を打たれたものの秋田の強力打線を2失点に抑えて初のベスト4進出。能登谷はリトルリーグ出身でその右腕は秋田西中時代から注目されていたし、阿部も小学校の頃から 「大物君」 と呼ばれ、大潟中時代からパワーと強肩は将来有望視されていた。高校卒業後、阿部はプロへ、能登谷は地元の社会人TDKへ進んだが、残念ながら2人とも本来の力をまだ出し切れていない (後略)。※平成8年12月発行 「熱球通信」 からの再掲。

<秋田県高校野球ライバル>阿部茂樹捕手(秋田) vs 能登谷和明投手(秋田西)。

abenoto<平成2年夏秋田西登録選手> [投]能登谷和明(3、右右、180/76、秋田西)、[捕]佐藤孝也(3、秋田北)、[一]保坂博昭(3、秋田北)、[二]渡部雅章(3、外旭川)、[三]大場正英(2、外旭川)、[遊]嵯峨悟(3、山王)、[左]桜田一成(3、大潟)、[中]○石黒聡(3、秋田西)、[右]佐藤孝洋(3、勝平)、高橋忠千代(2、秋田北)、福永亮二(2、秋田西)、菅原健一(3、秋田北)、加賀谷三広(2、秋田北)、西堀亮一(3、秋田北)、鈴木和人(3、山王)、佐藤俊伸(3、琴丘)、大渕孝人(2、秋田北)[責]沢田石清一、[監]赤沼新二。<平成2年夏秋田登録選手>[投]菅原朗仁(2、大潟)、[捕]阿部茂樹(3、右右、180/82、大潟)、[一]木谷臣吾(3、山王)、[二]樋岡康晴(3、大潟)、[三]武田健一(3、男鹿中)、[遊]金谷忠浩(3、秋田南)、[左]○小塚晃央(3、秋田東)、[中]田口和幸(3、秋田南)、[右]菅原勇輝(1、大潟)、高屋速人(3、河辺)、鈴木長武(3、秋田東)、半田昌幸(3、井川)、伊藤務(3、秋大付)、伊藤恒紀(3、五城目一)、佐藤幸彦(2、城東)、千田匡(2、五城目一)、沢井直豊(2、城東)、[責]須藤正道、[監]小野巧。

高校野球ライバル物語/中嶋聡(鷹巣農林)-川村健司(秋田工)-高田環樹(秋田)。

hg<チョコパン>さん、盗塁を刺した東海大市原望洋キャッチャー宍倉貫太くん(千葉北リトルシニア出身)は川村健司(秋田西~秋田工で甲子園16強~NTT関東で日本代表)の教え子だよ。捕手豊作時代の大型捕手、中嶋聡(182/77、鷹巣農林-鷹巣) - 川村健司(180/78、秋田工-秋田西)-高田環樹(178/76、秋田-土崎)。昭和59年~昭和61年、秋田県内に3人の大型捕手がいた。中嶋聡は中学時代に東北大会で優勝、全国大会で本塁打も打っている。地元の鷹巣農林に進んでからも順調に成長し、強肩強打の大型捕手として高3年時甲子園出場が期待されたが準々決勝で敗退、3回戦対増田戦の本塁打が当銀スカウトの目に留まりプロへ。川村健司も中学時代から注目され、秋田工では1年夏から捕手でレギュラー、2年夏はベスト4、高3年夏は川辺忠義(巨人)とのバッテリーで念願の甲子園出場。石橋智監督率いる秋田工の3回戦進出は周知の通り。卒業後NTT関東へ進み何度もドラフト候補に。高田環樹は土崎中で全県出場(チームメートに秋田工長谷川和徳、小形一成)。当初は外野手だったが、高2時時に捕手に転向、秋の東北大会では主将としてチームを引っ張り見事準優勝。忘れられないのは翌春センバツ初戦対高松西戦での本塁打。2浪して念願の慶應義塾大へ進学。(敬称略) ※平成9年2月発行「熱球通信」からの再掲。▲<昭和61年夏 鷹巣農林 登録選手> 庄司和哉(3、森吉)、○中嶋聡(3、鷹巣)、浪岡重樹(2、鷹巣)、織山悟(2、森吉)、渡辺公(3、阿仁一)、佐藤進(3、鷹巣南)、三沢寿(2、鷹巣)、久留島徹(3、鷹巣南)、藤島一彦(鷹巣)、桜庭浩樹(2、鷹巣)、高坂智(3、田代)、三沢法人(3、鷹巣)、福島直(3、阿仁一)、阿部義浩(3、八竜)、伊東秀美(2、森吉)、越後谷誠(2、大館一)、佐藤勝久(2、鷹巣)、[責]村上三雄、[監]津谷正俊。▲<昭和61年夏 秋田工 登録選手> 川辺忠義(3、城東)、川村健司(3、秋田西)、○長谷川和徳(3、土崎)、小形一成(3、土崎)、西村卓也(2、土崎)、佐藤天(3、泉)、佐々木勇人(3、城東)、南都一己(3、羽城)、船木吉秋(3、秋田東)、小田島務(3、協和)、千種一樹(2、八郎潟)、小玉匡仁(2、秋田東)、浅野聖(2、秋田西)、安田雄光(3、羽城)、塚田充秋(2、秋田西)、今野和義(2、平和)、鈴木正人(2、平和)、[責]安杖正昭、[監]石橋智。▲<昭和61年夏 秋田高録選手> 斎藤新(2、協和)、○高田環樹(3、土崎)、進藤一州(3、山王)、石井勇悦(2、八郎潟)、小林勇人(3、城東)、佐藤健一(3、井川)、鈴木雄輝(3、天王)、長嶋伸(2、城東)、牧野太(2、琴丘)、久米信彦(3、八郎潟)、佐藤秀一(2、協和)、珍田靖郎(1、秋大付)、館岡豪徳(2、羽城)、和田史穂(1、城東)、石塚道康(1、泉)、村山征士(1、城東)、加藤直之(1、秋田南)、[責]米田進、[監]小野巧。

<秋田県出身の慶應義塾大学OB選手> 猿田和三内野手 (主将、秋田-豊岩)。

ko3

高校ライバル物語 / 夏には勝てなかった2人のエース(上) 小林直樹-大山幸喜。

minami夏には勝てなかった2人のエース、小林直樹 (秋田南-五城目一)-大山幸喜 (能代-能代二)。昭和57年春、秋田南小林と能代大山は全県大会決勝で投げ合っていた。結果は、大山の能代が6-5で優勝したが、両者共に夏本番の大会決勝でも再戦するものと確信していた。小林と大山は、昭和56年夏の秋田県大会3回戦でも投げ合っており、この時は秋田南が延長の末1-0で勝利、かくして決着をつけるべく夏本番に3度目の対戦が期待されたが、ついに実現することはなかった。小林は高校1年の夏からマウンドに立ち、速球と大きなカーブで秋田南投手陣を支えていた。とりわけ経大付松本豊との投げ合いは2度とも延長にもつれ込む熱戦で秋田県高校野球史に残る投手戦だった。(高校1年秋の中央地区初戦で経大付が延長10回1-0で勝利したが、もし経大付が敗れていればその後の東北大会優勝も翌春センバツベスト8も幻に終わっていた)。小林は高校1年からひたすら投げ続けたが、最も甲子園に近づいたのが高校2年の秋、主戦として主将としてまた中心打者として初の全県制覇を果たし、臨んだ地元開催の東北大会。初戦で強豪仙台育英に勝利し、周囲の期待が大きく膨らみセンバツ王手のかかった準決勝の日大山形戦、結果はまさかの不調で4-10で敗戦、それまでの練習試合では日大山形を圧倒していたのに、、、、、。(平成9年10月発行「熱球通信」より再掲)<秋田南昭和56秋季秋田県大会決勝先発選手>[三]菅原神城(2、羽城)、[中]松田功(2、城東)、[一]斎藤誠(2、城南)、[投]○小林直樹(2、五城目一)、[右]鈴木隆(2、秋田西)、[二]斎藤智(1、秋田南)、[左]土井商一(2、土崎)、[遊]菊地良知(1、五城目一)、[捕]東海林健(1、秋田西)、浅野良裕(1、協和)、大塚晃(1、秋田西)、清水幸代(1、外旭川)、清水忍(1、城東)、長門幸雄(2、城南)、船木憲一(2、秋田東)、佐藤恵一(2、城南)、清水毅彦(2、秋田南)、[責]畠山貞蔵、[監]赤沼新二、[記]杉山安生(2、山王)。

高校ライバル物語 / 夏には勝てなかった2人のエース(下) 大山幸喜-小林直樹。

nosiro 1夏には勝てなかった2人のエース、大山幸喜 (能代-能代二)-小林直樹 (秋田南-五城目一)。一方の大山は、昭和57年春季全県優勝投手であり、東北大会優勝投手でもあった。愛称ジャイアント (179cm/72kg)、しっかりした下半身から繰り出される投球には安定感があった。両者右の本格派であったが、剛の小林に対し大山の方は柔のイメージか。この年の能代は、大山に加えて京屋、若狭、佐々木等の強力打線の大型チームで夏優勝候補の筆頭。対する秋田南も菅原、斉藤誠、斉藤智等機動力とつながりのある打線で対抗していた。そして迎えた最後の夏。、能代は第1シードの重圧からか初戦の大館鳳鳴に苦戦、大山自身も平常心ではなかった?。そして3回戦の前年覇者経大付戦、経大付はチーム力は前年より落ちていたものの相変わらずの試合巧者ぶりを発揮。大山はその経大付に研究されていた感があり、頼みの強力打線も古田の巧投にかわされ2-7、実力を出し切れずのよもやの敗戦!秋田南の方は直前の能代選抜で優勝し勇んで臨んだ大会、初戦合川戦は苦戦したものの続く西目、湯沢商と撃破し準決勝に進出。相手は今大会好調の水沢を擁する秋田商。試合は秋田商に先制され苦しい展開、打線も振るわず、結局8回の秋田商4番高橋明の本塁打で小林の高校野球は燃え尽きてしまった。両投手共に期待されながら甲子園のマウンドに踏めなかったが、両校の新たな伝統の礎を築いた 「悲運のエース」 を越えた 「大いなるエース」 であった。(平成9年10月発行 「熱球通信」 より再掲) <昭和57年夏能代高校登録選手>[投]大山幸喜(3、能代二)、[捕]北村功(3、能代一)、[一]佐々木幹(3、能代一)、[二]館岡明彦(2、能代一)、[三]田村貞行(2、琴丘)、[遊]○三国満(3、能代二)、[左]京屋健司(3、能代二)、[中]若狭洋孝(3、沢目)、[右]桜庭一也(3、能代一)、木藤康嗣(3、沢目)、桜田卓也(3、二ツ井)、小林正樹(3、能代一)、佐藤明(3、能代二)、田村一司(2、山本)、大塚孝一(2、能代二)、佐藤英樹(2、能代二)、工藤豊文(3、能代一)、[責]小林多樹也(46)、[監]菅野政喜(22)。

高校野球ライバル物語 / 昭和51年 秋田商4藤打線 ( 佐藤、武藤、後藤、進藤 )。

mark過去に、秋田県勢 「大旗」 白河越えの期待が持てたチームが何校かあったが、昭和51年(58回)の秋田商もまさしくその1校だった。好投手 山岡政志 (下浜) と4番武藤一邦 (大曲) を中心とした強力打線が野球ファンをその気にさせていた。特に 「秋田県歴代最強」 と言われた打線は、トップの石井から切れ目がなく、他校投手陣の脅威に。軸となったのは、四藤のスラッガーカルテットだった。その片鱗を見せたのが前年秋の東北大会(秋田県)の対東北高校戦、本格派投手相手に後藤のランニングホームランを含む猛打爆発でコールド勝ち、山岡も完封。が、続く福島学法石川戦でのよもやの敗戦で翌春センバツ出場は逃がした。そして、翌年夏の青森県との奥羽大会、決勝では、大会前に今川敬三監督を交通事故で失いながらも、宿敵秋田高校を11-1の大差で下し、その実力を周囲に見せつけた。秋田商は前年も2年生主体で、初戦地元洲本に9-0で勝利しており、地元ファンの期待もヒートアップ。が、甲子園では初戦から強豪校と当たるクジ運のめぐり合わせか、初戦強豪宇部商には4-3で辛勝したが、次戦の優勝候補天理戦では、山岡投手得意のシュートがボールと判定されるなどの不運もあり、延長の末4-5での惜敗。秋田県民の夢はついえた。が、今でもあの力強い 「秋商強力打線」 は脳裏から離れることはない。その後、佐藤と後藤は社会人へ進み、進藤は金融機関に就職し野球から離れた。主将の武藤は、高校全日本メンバーの一員として韓国遠征、ドラフト会議でパ・リーグの南海ホークスから1位指名されている。(敬称略) ※平成9年7月 「熱球通信」 からの再掲。<昭和51年夏 秋田商 登録選手> 山岡政志(3、167/63、下浜)、後藤浩(3、169/72、羽城)、進藤勝(3、186/83、山王)、谷村鈴義(3、165/64、八郎潟)、佐藤強(3、177/77、外旭川)、高桑仁(2、176/72、船川)、宮崎好(3、170/68、船越)、○武藤一邦(3、183/78、大曲)、石井靖(3、177/79、鷹巣)、藤原博道(3、177/67、羽城)、秋元純一(3、176/73、成章)、石黒日芳(2、174/72、秋田西)、山田満(3、173/71、上小阿仁)、高橋秀孝(2、176/67、土崎)、[責]佐藤正吾、[監]加藤肇。

秋田県高校ライバル物語 / 村田辰美(六郷-金沢)-阿部政文(大館鳳鳴-花岡)。

jambalaya_12obac-34【2011.2.01】スポーツ紙でセンバツ大会出場大館鳳鳴の主な卒業生として阿部政文投手を紹介、この年代も甲子園が目前だった。【2009.11.17】左のDr.K 村田辰美 (近鉄-三菱自動車川崎-六郷-金沢)-右のDr.K 阿部政文 (大昭和製紙-早稲田大-大館鳳鳴-花岡)。昭和43年から昭和46年にかけて秋田県内には左右のDr.Kがいた。夏の県高校野球記録である1試合18奪三振を達成している左の村田投手と右の阿部投 手(学年は村田が1年上) である。村田は1年時 (第50回) の対能代農戦で記録しているが、試合は逆に能代農の成田投手が無安打無得点を記録し、一度に2つの大記録が生まれた珍しい試合であった。一方の阿部は高2年時 (第52回) の3回戦対湯沢戦で記録 (結果4-1) している。高校時代は共に甲子園とは残念ながら縁がなかったが、その後の活躍はご存知の通り。村田は社会人経由でプロへ進み変則的サウスポーとして活躍。阿部は早稲田大のエースとして東京六大学で活躍し卒業後は社会人へ。(敬称略) 平成8年10月発行 「熱球通信」 からの再掲。

秋田県高校野球ライバル/中川申也(秋田経法大付)-斎藤幸治(秋田経法大付)。

abehuzoku中川申也、斎藤幸治選手と同期の阿部浩人選手 詳細は <BALL PARK AKITA>  ・全国を沸かせた秋田経法大付 中川申也(投、阪神入団) vs 斎藤幸治(内、東芝入社)。昭和63年第54回全県少年野球大会決勝戦、中川(山内村立山内中学校)と斎藤(秋田市立城南中学校)は共に初優勝を狙っていた。試合は戦前の予想通り、両投手の投げ合いとなり延長戦の末、勝利の女神は斎藤に微笑んだ。中川は試合後倒れ、救急車で病院に搬送 (歴史に残る決勝戦)。中学卒業後は偶然か両者共に秋田経法大付に進学し、合宿所も同室となった。まず最初に頭角を表したのは中川の方だったが、それはそれは鮮烈なデビューだった (詳細省略、夏甲子園大会で一躍全国区)。秋田経法大付は翌年の春センバツにも出場するが、故障中の中川の代役として斎藤が地区大会好投した所産であった。その斎藤は、その後不運にも故障し、春センバツでの投板はならなかった (念願の甲子園初投板は2年夏の甲子園3回戦対横浜商戦)。試合は不運な内野安打で痛恨のサヨナラ負け。高3年時は中軸4番として活躍したが、結局甲子園出場はならなかった。<平成3年夏秋田経法大付登録選手> [投]中川申也(3.山内)、[捕]永井英樹(3、鷹巣)、[一]斎藤幸治(3、城南)、[二]○深川昌幸(3、山王)、[三]阿部浩人(3、土崎)、[遊]杉本公三(3、五里合)、[左]三浦義弘(3、秋田東)、[中]明石幸治(3、大館一)、[右]土門康典(3、城南)、間藤哲(2、花輪一)、伊藤芳朗(3、大館一)、田中直人(2、秋田北)、秋山芳弘(3、上野)、古谷広明(2、豊岩)、小玉塁(1、羽城)、小島英人(1、泉)、高田健二(1、角館)、[部]古谷孝男、[監]鈴木寿。

秋田県高校野球ライバル物語 / 杉山信哉(秋田商)-佐々木直行(秋田経大付)。

aef912cc-shutatui 1秋田の牛若丸対決 (昭和57年第64回大会)、杉山信哉 (秋田商-二ツ井)-佐々木直行 (経大付-城東)。秋田県大会決勝、経大付が秋田商に接戦の末10-7で勝利し、2年連続の甲子園出場を決めた。その瞬間、秋田商杉山遊撃手は3年前の悪夢を思い出していた。それは二ツ井中時代に東北を制し、全国大会準々決勝で対戦した奈良五条中戦での延長の末のまさかのジャンケン負け (その当時はまだスペシャルルールはなかった)。杉山は内野の他にも投手と大車輪の活躍で本塁打も打てた。一方の経大付佐々木二塁手は自身3度目の甲子園を決め感激に浸っていた (中学時代も新興城東中の主将として全県出場)。佐々木選手で印象深いのは1年秋の明治神宮大会で早稲田実荒木大輔投手から打った二塁打を含む2安打。杉山、佐々木両選手ともに小柄ながら野球センス抜群で三拍子揃ったシャープな選手だった。先述の決勝戦で佐々木はリリーフした杉山から右前安打を打っているが、直接の投手対決は意外に少なく春の中央地区で佐々木先発杉山リリーフで試合は秋田商が6-3で勝利している。卒業後、杉山は住金鹿島、佐々木は秋田相互銀行に進んだ。※平成9年6月発行「熱球通信」よりの再掲 。私も横浜スタジアムで、じゃんけん見ました。五条中は奈良県の強豪校で智弁学園に多く進学していました当時も大型チームでエースの阪本君は智弁に進み甲子園に出ました<ハマのパンチョ>。

秋田県ライバル物語 / 鎌田祐哉(秋田北-下新城)-石川雅規(秋田北-下新城)。

isikawa-2東京六大学・東都大学の胴上げ投手は中学の先輩・後輩 鎌田祐哉 (早稲田大3年-秋田経法大付-秋田北) vs 石川雅規 (青山学院大2年-秋田商-秋田北)。久しぶりに秋田野球の存在感を示したのが今春の大学野球であった。伝統の東京六大学と東都大学の優勝胴上げ投手は共に秋田県出身。しかも中学の先輩・後輩というおまけつき。5月20日(木)、優勝がかかった青学対東洋戦、私は大きく成長した小さなエース石川投手をどうしても見たくて神宮球場に足を運んだ。優勝戦にしては寂しいスタンドだったが、グランドは石川投手の独壇場だった。球速は130km半ばだが3月に覚えたシュートと抜群のコントロール。何よりも打者に向かっていく闘志が感じられた。6回にスパイクされ右足から出血しても耐えて投げ抜いたのは見事。青山学院大全14試合中11試合に登板し、6勝を挙げしかも防御率1.71でリーグ1位に輝いた。高校1年夏の秋田市内リーグ戦対秋田高校戦で敗戦処理に近い形でリリーフして炎上した石川投手を観ているが、体もないし左腕というのが特徴なくらいでは高校野球では通用しないだろうなと思っていたが、その後の努力が今花開かせたのは間違いない。まだ、大学2年生、あと3~4kmスピードがつけばプロも当然視野に入ってくる。※平成11年6月発行 「熱球通信」 より再掲。

秋田県ライバル物語 / 鎌田祐哉(秋田北-下新城)-石川雅規(秋田北-下新城)。

下新城小学校児童数143人(平成29年11月1日現在)
simo

秋田県ライバル物語 / 鎌田祐哉(秋田北-下新城)-石川雅規(秋田北-下新城)。

kamada東京六大学・東都大学の胴上げ投手は中学の先輩・後輩 鎌田祐哉 (早稲田大3年-秋田経法大付-秋田北) vs 石川雅規 (青山学院大2年-秋田商-秋田北)。一方の鎌田祐哉もアッパレな活躍だった。昨季まで3勝10敗、完投なしの投手が強力打線の法政大相手に11奪三振、1走者の完封勝利、7回までパーフェクトであわや35年ぶりかというゲームだった。1学年下の石川雅規とは対象的に183cmの長身、143kmのストレートと2種類のスライダーで今季一躍早稲田大右のエースとして11季ぶりの優勝に貢献した。鎌田は高校時代右のエース (高2夏の新チーム後の秋田市内リーグ戦初戦先発) と言われながら左のエース金沢博和 (JT) の陰に隠れがちで甲子園でも登板の機会はなかった。今季から采配の野村監督の指導のもと大きく成長し、高校同期の金澤投手とともにドラフト候補に成長。石川も鎌田も中学時代は全県大会に出場していないし目立った活躍もしていない。2人が高校時代直接投げ合ったかは定かでないが、両者とも高校 → 大学と確実にステップアップしている。6月の大学選手権で2人が決勝で投げ合う姿を是非観たいものである。今から6月が楽しみである。(敬称略)※平成11年6月発行 「熱球通信」 より再掲。

秋田県高校野球ライバル物語 / 甲子園ベスト4立役者(上)工藤浩孝-高橋誠一。

d32a65a3-s昭和59年夏第66回甲子園大会、この大会で秋田県民は久しぶりにヒートアップした。金足農が初出場ながら4勝してベスト4に進出したからである。しかも準決勝では優勝候補筆頭PL学園に一時はリードするなど大善戦。この快進撃のMVPは水沢投手でも長谷川主将でもなくトップバッターの工藤浩孝であった。工藤は劣勢と言われた初戦の古豪広島商で本塁打を放ち波に乗り、大会17打数11安打の.647の秋田県選手最高打率をマーク(うち2安打は桑田投手から、大会後水沢と共に全日本チームに選抜)。171cm69kgと小柄ながら鋭い打球を飛ばし、大技小技の出来るトップバッターで、そのプレーぶりとは対照的に人なつっこいさわやかなマスクで金農=工藤というほどの人気者になった。甲子園で大ブレークした工藤ではあったが、高2の夏は6番打者で、翌春のセンバツでも目立った活躍はなかった。が、高3夏の大ブレークの兆候は、夏の秋田大会決勝に表れていた。能代にリードされた9回表、アウトと勘違いしベンチに戻りかけたこの 「迷走」 が相手野手陣の思わぬミス誘発し同点に。ミスを幸運につなげたのである。(敬称略、※平成10年5月発行熱球通信からの再掲) 。・昭和59年夏金足農登録選手、[投]水沢博文(3、秋田北)、[捕]○長谷川寿(3、五城目一)、[一]鈴木善久(3、五城目一)、[二]佐藤俊樹(3、船川)、[三]大山等(3、琴丘)、[遊]工藤浩孝(3、八郎潟)、[左]原田好二(2、船川)、[中]斎藤一広(3、雄和)、[右]柏谷安彦(3、秋田北)、半田英生(3、井川)、佐藤学(3、天王)、加賀谷宏基(3、男鹿東)、安田徹(2、男鹿東)、伊藤仁(3、船川)、山崎里史(3、下浜)、浅野和幸(3、井川)、小玉勇樹(2、五城目一)、[責]豊島君男、[監]嶋崎久美。

秋田県高校ライバル物語 / 地元の夢砕いた地元のヒーロー 水沢英樹-浅利昌彦。

mizusawa2012(平成24年)天皇賜杯第67回全日本軟式野球大会 (10/27~、沖縄県) 出場 TDK 浅利昌彦監督は 「会社・職場・家族に感謝し、チーム一丸となって戦います」 地元の夢砕いた地元のヒーロー、水沢英樹(経法大付-生保内)-浅利昌彦(角館-角館)。1987(昭和62年)第69回甲子園秋田大会決勝は圧倒的強さで進出してきた第1シード経法大付とノーシードながらバランスのとれた攻守でコマを進めてきた県南の伝統校角館の対戦に。経法大付は春の全県大会と東北大会でも優勝しており、マウンドには常に若松かプロ注目水沢が立っていた。角館の浅利にとっては、中学時代からどうしても超えられない大きな 「壁」、それが水沢だった。共に仙北地区の中学出身で、2年で全県優勝投手になり、3年時にも全県出場を果たしている水沢の生保内中は、浅利の角館中にとってはまさしく天敵だった。そして今再びその大きな壁に挑む時が来た。浅利は角館の中軸で、守備も遊撃手と攻守の要、前日の秋田中央戦でも本塁打を放ち、確かな手ごたえを感じていた。が、結果は佐々木修の連投の疲れもあり、1-7で経法大付に敗退。浅利の甲子園への夢はついえたが、水沢に対して3打数1安打(二塁打、1三振)の内容で、試合には敗れたが、中学からのライバル水沢からの二塁打は大きな自信に。水沢は中学時代から注目の右腕で、オフにはスキーアルペンで全県優勝するなど抜群の運動神経を魅せていた、高校卒業時に広島からドラフト指名されプロへ進んだが、現役中は故障に泣かされ、1軍のマウンドに立つこと出来なかった(敬称略、平成9年8月 「熱球通信」 からの再掲)。<昭和62年夏 秋田経法大付 huzoku登録選手> [投]水沢英樹(3、生保内)、[捕]○佐々木一幸(3、平和)、[一]若松寿樹(3、比内)、[二]土屋治巳(3、川柳)、[三]西巻健一郎(3、岩崎)、[遊]田中亮(2、山王)、[左]佐藤康典(3、土崎)、[中]鈴木由和(3、川柳)、[右]古屋吉則(3、大曲西)、佐々木卓哉(3、大曲)、平林卓郎(3、越谷南)、成田敦(3、鷹巣)、長谷部建一(3、秋田西)、佐々木誠(3、山王)、今野新二(2、豊岩)、嵯峨猛(2、山王)、若林秀樹(3、川柳)、[責]古谷孝男、[監]鈴木寿。<昭和62年夏 角館 登録選手> [投]佐々木修(3、西明寺)、[捕]○村上浩樹(3、中仙)、[一]森元寿文(3、角館)、[二]高橋亮(3、角館)、[三]佐々木直行kakunodate(3、角館)、[遊]浅利昌彦(3、角館) [左]草彅慎也(3、生保内)、[中]草彅大輔(3、豊成)、[右]藤田貴士(3、中仙)、藤田喜士(3、中仙)、高橋博之(2、大田)、石塚仁(2、生保内)、戸堀賢太郎(3、中仙)、佐藤雅和(2、大曲)、柴田清史(3、生保内)、佐々木英樹(2、豊成)、田口慎二(1、生保内)、[責]才田一展、[監]塚田博。 ※誤字脱字訂正加筆 jstaff@cna.ne.jp

秋田県高校野球ライバル物語 / 佐藤純一(大曲) vs 鷲谷亘(秋田市立) <下>。

wasiyaGO-STOP-CALL.COM スポーツ用品の輸出入販売、代表取締役 / 鷲谷亘、日本支社 / 秋田県由利本荘市岩城内道川字新鶴潟1-11、http://www.go-stop-call.com/ 【2011.11.21】平成23年11月20日(日)付秋田さきがけ紙3面で近況紹介【2009.12.27】一方の鷲谷亘は秋田市立時代にエース石崎の陰に隠れながらも2番手投手として活躍し、甲子園に出場している。もし他校に進学していれば十分エースとしてマウンドを踏めるだけの力量を持った投手だった。卒業後はチームでライバルだった石崎と共に東洋大に進学。石崎は大学時代に打者に転向したが鷲谷は4年間投手として頑張った。そして大学卒業後アメリカのビル・キナモン審判学校に進んだ後にセ・リーグの審判員に採用される。彼のアンパイヤ人生で印象深いのは何といっても巨人槙原寛己投手の完全試合と阪神戦の三塁での判定をめぐっての阪神コーチによる暴行事件である。事件の詳細は割愛するが、山あり谷ありのアンパイヤ人生で巨人や阪神等の人気チームにも迎合することなく頑固一徹なジャッジメントは強く印象に残っている。審判員というのは本当に野球が好きでないと務まらない仕事である。その意味でこの2人は真のベースボールプレヤーであるといえる。(一部省略、文中敬称略) ※平成10年4月発行「熱球通信」よりの再掲。

秋田県高校野球ライバル物語 / 佐藤純一(大曲) vs 鷲谷亘(秋田市立) <上>。

sato「オレ達がルールブックだ」 佐藤純一(大曲-大曲) vs 鷲谷亘(秋田市立ー秋田北)。プロの審判員は当然の如く大半がプロ野球出身者かもしくは野球経験者であるが、今回は、秋田県出身の2人の「ルールブック」を紹介したい、佐藤純一と鷲谷亘。2人のアマチュア時代は順調だった。佐藤は都市対抗で活躍し、鷲谷は高校時代甲子園出場を果たしている。佐藤は大曲高校時代、春の地区大会でサイクルヒットを記録する等スラッガーとして鳴らした強肩俊足好打の選手だった。秋田相互銀行に入ってからは恵まれた素材を開花させチームの中心選手として都市対抗に出場し秋田勢の1勝に貢献している。その試合1回戦対電々信越戦を後楽園球場で観戦したが、佐藤の素晴らしい本塁打と秋田相互銀行の勝利に感激したあの光景は今でも忘れられない。社会人での活躍が評価され近鉄球団にドラフト指名され、秋田の社会人で育った数少ないプロ選手として大いに期待されたが入団後は故障等もあり1軍ではあまり活躍出来ずに引退し、パ・リーグの審判員に転進する。(文中敬称略)※平成10年4月発行「熱球通信」よりの再掲。

秋田県高校野球ライバル物語 / 甲子園ベスト4立役者(下)高橋誠一-工藤浩孝。

huzoku金足農の夏甲子園ベスト4から5年後の平成元年夏、今度は経法大付が快進撃をする。1年生エース中川旋風の時である。そのチームのトップバッターが高橋誠一で、174cm65kgの俊足強肩巧打の中堅手で文字通り野球センスに恵まれた理想的なトップバッターだった。得点力の少なかった同チームにあって、甲子園での彼の出塁が着実に得点に結びついたケースが多く、(準決勝吉岡の帝京戦を除く3試合で毎試合安打、全4試合16打数6安打0打点1三振1四球.375の成績で大会後に高校全日本選抜。秋田西中時代はエースで中軸を打っていたが高校入学後に野手に転向、不動のトップバッターとなり、甲子園では経法大付攻守の要であった。工藤浩孝、高橋誠一2人のトップバッターの活躍を見るにつけ、甲子園で勝ち進むにはトップバッターの存在がいかに大事か改めて認識させられた(昭和40年秋田高夏甲子園ベスト4時には成田憲明外野手)。彼らに続く秋田県高校野球史に残るトップバッターの出現が待たれる。(敬称略、平成10年5月発行「熱球通信」からの再掲)。平成元年夏秋田経法大付登録選手、 [投]川尻英保(3、東能代)、[捕]佐井雅幸(3、六郷)、[一]安保勲(3、花輪一)、[二]桜庭裕也(2、鷹巣)、[三]沼田満秋(3、城東)、[遊]○松岡勇樹(3、二ツ井)、[左]佐藤征市郎(3、本荘北)、[中]高橋誠一(3、秋田西)、[右]京極直人(3、秋田南)、高橋浩一(3、六郷)、原田賢弥(3、能代一)、半田貴志(2、井川)、杉本正人(2、五里合)、堀井正二(3、平和)、佐藤和世(2、秋田南)、中川申也(1、山内)、齋藤幸治(1、城南)、[責]古谷孝男、[監]鈴木寿。

<高校野球ライバル物語> 剛腕 松本豊(経大付)-スラッガー 石井浩郎(秋田)。

matumotoisii剛腕 松本豊 (秋田経大付-角館)-スラッガー 石井浩郎 (秋田-八郎潟)。「甲子園で勝つより秋田で勝つ抜く方が難しい」 と秋田経大付古城敏雄監督 (当時) が語ったように昭和55年からの数年間、秋田県野球のレベルは高く黄金時代であった。この時期には多くのプロ野球選手を輩出している。秋田商の国体準優勝、春センバツベスト8、軟式能代の国体優勝、翌年の秋田経法付センバツベスト8、夏3回戦進出、東北大会優勝、金足農準優勝等秋田県勢は数々の栄光の足跡を残している。そんな燃えるような空気の中、特に忘れられないのは、昭和55年9月21日の秋季秋田県大会決勝、古豪秋田-新鋭秋田経大付の試合である。秋田の1年生4番石井が2回に剛腕松本から本塁打 (4打数2安打1本塁打)、延長11回には今度は松本が左翼席に本塁打を放ち、試合は6-1で秋田経大付が優勝。松本は中学時代に完全試合を達成しており、高校でも県内の公式戦で本塁打を打たれたのは石井と翌年の伊藤博 (内、大曲-平和、右右、182/67) ぐらいのものである。1年生石井は 「将来の大器」 と関係者に評された。その後の2人のプロ入りは周知のとおりである。(敬称略、平成9年5月発行、紙媒体 「熱球通信」 からの再掲)。

<秋田高校野球ライバル物語> エースで4番で左のスラッガー 後藤光尊-佐藤力。

gototikara2人はエースで4番で左のスラッガー 後藤光尊(秋田-八郎潟、右左、176/73) -佐藤力(秋田南主将-五城目一、左左、176/75)。以下平成11年1月発行 「熱球通信」 からの再掲、去年のアジア大会、日本は韓国に惨敗したが、その中でキラリと光る一撃があった。後藤光尊がドジャースのエースでもあるパク投手から打った左中間二塁打である (予選リーグの対台湾戦でも本塁打)。東京六大学法政大進学も直ぐに退学し、もう活躍できないのではと周囲を心配させたが、高校の先輩でもある齋藤正直監督の社会人野球川崎製鉄千葉に入社し、1年目からサードのレギュラーとして都市対抗準優勝に貢献した(そして全日本入り)。一方の佐藤力は、高1春のリーグ戦から投手兼任で一塁を守っていたが (中学の1年先輩石井智之投手とどちらが先輩かと見紛う位の堂々さ)、彼のバッティングのセンスは際立っていた。その後、体も出来て名前通りの力強いバッティングで常に秋田南の中軸として活躍、さらに2年の秋からはサウスポーエースとしてチームの投打の大黒柱となる。後藤は中学時代に野球で全県大会に出場しただけでなくラグビーでもSOとして活躍し全国大会に出場、究極の選択で野球を選択し、高1の秋から投手としてまた打者として活躍。高2秋の東北大会で優勝投手となり、続く明治神宮大会では場外ホームランを放ち松山商 (翌年夏全国優勝) に勝利している。中学時代から野球の盛んな南秋田郡区でライバルであった2人。球歴では佐藤がいつも後藤の後塵を拝していたが、ついに平成8年夏の県大会3回戦で秋田後藤投手と対戦し、今まで苦手としていた後藤から本塁打のおまけ付きで快勝。秋田南はベスト4ま進んだが悲願の甲子園には届かなかった。エースで4番で主将の佐藤力の高校野球は終わった。両者共にエースで4番としてチームを引っ張ったが共通しているのは投手としてより左のスラッガーとしての印象が強いことである。身長は共に175cm前後と大きくないが(体重差もあまりないが外見は対照的)、リストの効いたバッティングが持ち味だった(通算本塁打後藤40本以上、佐藤もそれに劣らない数字)。

<秋田高校野球ライバル物語> エースで4番で左のスラッガー 後藤光尊-佐藤力。

gototikara

1996(平成8年)夏準々決勝 秋田南-秋田、先発/秋田南佐藤力、秋田後藤光尊。

準決勝進出 経法大付(金沢) 金足農(工藤) 秋田商(三浦) 秋田南(佐藤
minamiakita

秋田県高校野球ライバル物語 高松直志(能代-山本) vs 工藤幹夫(本荘-本荘南)。

takamatukudou元日本ハム投手の工藤幹夫さんが2016(平成28年)5月13日、肝不全のため秋田市内の病院で死去、55歳。告別式は18日午後1時から、秋田典礼会館セレモで、喪主は長男工藤壮史さん(秋田商硬式野球部OB、城東中時代Akita中クに選抜)。工藤さんは78年ドラフト2位で本荘から日本ハムに入団。4年目の82年には先発として20勝4敗、防御率2・10の好成績を残して最多勝、最高勝率、ベストナインを受賞。その後、右肩を痛めて88年には野手へ転向も、その年限りで現役を引退。通算成績は78試合に登板して30勝22敗、防御率3・74。東北の星飛雄馬高松直志(NTT東北-能代-山本)と大型サブマリン工藤幹夫(日本ハム-本荘-本荘南)。昭和53年第60回大会(PL学園優勝)の秋田大会決勝は秋田県高校野球史に残る好ゲームとなった。プロも注目する2人の投げ合いは6回に波乱があり、接戦の末3-2で能代高松に軍配。高松直志と工藤幹夫は中学時代からサウスポーの本格派とアンダーハンドの好投手として期待されていたが、工藤は本荘南中時代に東北中学大会の優勝投手(3試合連続完封)に。高松の劇画の星飛雄馬バリのの右足を高く上げるダイナミックなフォームと工藤のしなやかな体と長い手から繰り出される華麗なフォームは全国的に注目を集めた(高松は甲子園大会終了後日本選抜チームの一員として訪韓)。今思えばこの両チームに打撃力があれば甲子園でも上位に勝ち進めたと思う。(敬称略) ※平成8年9月発行「熱球通信」から再掲。

秋田県高校野球ライバル物語 大塚広己(能代商-能代南)-竹内昌也(本荘-象潟)。

takeuti竹内昌也投手、現在は中日スコアラー。社会人野球NTT東北の先輩・後輩 大塚広己(能代商-能代南) -竹内昌也(本荘-象潟)。昭和63年第70回記念大会の甲子園秋田大会決勝は、強力打線の能代商と2年生の好投手竹内を擁する本荘との対決となった。戦前は、3回戦からすべてコールド勝ちの強力打線能代商の有利かと思われたが、本荘竹内投手が9安打打たれながらも能代商を3点に抑える粘投を見せ、本荘打線も疲れの見えた大塚投手から初回に4点を奪い結局5-3で勝利して甲子園行きの切符を手にした。注目の竹内と大塚の直接対決は4打数2安打2打点1本塁打の大塚に軍配。竹内は、象潟中2年時から大型投手として注目され、本荘進学後2年で甲子園出場、卒業後NTT東北からドラフト2位で阪神入団。一方の大塚は、サウスポーの技巧派投手兼スラッガーとしてチームを引っ張り、171cmと小柄ながら鋭い打球を飛ばしパワーも十分であった。もう少し上背があればプロでも十分やれる好素材であったと思う。(敬称略、平成9年3月発行「熱球通信」からの再掲)

<秋田県高校野球ライバル物語> 高校時代は無名の両選手(上) 山田久志-落合博満。

raibaru山田、落合選手共にプロ野球中日監督歴任。プロ野球史に残る大選手も高校時代は無名選手 山田久志(能代-能代二)-落合博満(秋田工-潟西)。秋田県出身のプロ野球選手で投打の代表格と言えばこの2人であろう。落合は山田より5歳年下で高校時代の対戦はないが、2人とも目立った活躍は残していない。山田は高校2年夏の大会、三塁手として出場も彼のサヨナラエラーで金足農に敗れている。その後、失意のうちに退部し、何とか復帰した後は下手投げ投手に転向したが、甲子園とは縁がなかった。高校時代のエピソードとして3年の時にコーチに注意されたが、向こう気の強い彼はバットで殴り返そうとする。が、そのバットがカラ振りしたと本人が述懐している。球界の紳士と評された彼も高校時代は血の気の多い選手だった。頭角を現したのは富士鉄釜石に入社してからで、都市対抗での活躍がプロのスカウトの目に止まり阪急のにドラフト1位で入団。サブマリン投手最高の284勝は立派。(敬称略)※平成10年1月「熱球通信」からの再掲。

<秋田県高校野球ライバル物語> 高校時代は無名の両選手(中) 山田久志-落合博満。

raibaruプロ野球史に残る大選手も高校時代は無名選手 山田久志(能代-能代二)-落合博満(秋田工-潟西)。一方の落合の高校時代も変っている。中学時代はエースで4番でその素質に多くの高校から誘いがあったが、本人は当時あまり練習の厳しくないと言われた秋田工に進学している。練習にほとんど出なかったがその天才的な野球センスで試合ではよく打った。3年間野球部に在籍したものの練習にも試合にもほとんど出なかったのが真実らしい。落合のグランドは主に秋田市有楽町の映画館だった。練習に出ず好きな映画をよく観たと本人も述べている。高校卒業後は東洋大に進むが早々に中退し、秋田に戻ってプロボウラーを目指した。しかし交通違反で反則キップを切られプロ受験の費用がパーになったためプロを断念。もしもこの時キップが切られていなかったら現在の落合はなかったかもしれない。秋田工時代の安杖野球部長の紹介で社会人東芝府中に入社。ここで落合の素質が一気に開花した。全日本の3番打者として活躍し、ロッテにドラフト3位で入団。その後の活躍は周知の通りである。山田、落合とも高校時代は全く無名の球児だった。(敬称略)※平成10年1月発行「熱球通信」からの再掲。

<秋田県高校野球ライバル物語> 高校時代は無名の両選手(下) 山田久志-落合博満。

プロ野球史に残る大選手も高校時代は無名選手 山田久志(能代-能代二)-落合博満(秋田工-潟西)。山田、落合落合両選手ともに高校時代は無名の球児だった。しかし、野球の神様が彼らの素質を見抜き、大選手へと導いていった。それはやはり、彼らが野球が好きでどんな形にせよ続けていたからこその結果だと思う。現在球児の皆さんも高校時代に不完全燃焼でも諦めずに野球を続けていれば山田選手や落合選手のようになれる可能性がある。最近、特に卒業後 「硬式野球」 をやめる選手が多い。確かに状況は厳しいが、山田選手や落合選手という郷土の大先輩を目標にしてチャレンジして欲しいと思う。野球の神様はそういう秋田球児を暖かく見守ってくれるに違いない。※平成10年1月発行「熱球通信」からの再掲。

<秋田県高校野球ライバル物語> 昭和59年 秋商-秋高 定期戦 菅原一夫-菅原文夫。

昭和59年4月14日の秋田商-秋田高定期戦(OB戦)で兄弟選手が活躍、兄の秋田商菅原一夫選手(山王)と弟の秋田高菅原文夫選手(山王)。一夫選手は昭和54年、主将、三塁手として甲子園出場し、対広島商戦で三塁打、今春駒澤大学を卒業して母校秋田商のコーチ就任。秋田市役所野球部に籍を置く弟の文夫選手は、定期戦でも中前打放つ活躍。興味深いのは、兄秋田商田口淳選手(下浜)と弟田口康(下浜)選手も菅原兄弟と同じパターン。
mark<昭和54年春 秋田商業登録選手> [投]籾山詩男(3、船川)、[捕]佐藤文信(3、山王)、[一]熊谷和秋(2、秋田南)、[二]佐藤義己(3、船川)、[三]○菅原一夫(3、山王)、[遊]横山幸悦(3、秋田西)、[左]畠山哲人(2、二ツ井)、[中]佐藤康二(2、外旭川)、[右]近藤幸彦(2、鷹巣)、安保浩幸(2、八幡平)、高山郁夫(2、花岡)、薄田勝也(2、五里合)、森川順一(2、秋田西)、鎌田義幸(2、男鹿東)、高橋徳之(2、土崎)、三浦英美(2、船川)、七尾光昭(2、二ツ井)、小山大(3、羽城)、田口淳(3、下浜)、近藤博(3、琴丘)、[責]登利谷重郎、[監]三浦第三、[記]湊雅彦
<昭和56年春 秋田高校登録選手> [投]石井浩郎(2、八郎潟)、[捕]鈴木彰(3、秋田北)、[一]伊保谷徹akita(1、山王)、[二]高橋誠(2、秋田西)、[三]三浦純也(2、秋田西)、[遊]○猿田和三(3、豊岩)、[左]住吉浩鹿(2、秋田西)、[中]稲垣寿(3、秋田西)、[右]菅原謙二(2、羽城)、天野清美(3、秋田東)、石井浩次(3、雄和)、佐々木誠(2、羽城)、立花俊幸(1、城東)、小野武紀(3、土崎)、伊藤元(2、秋田南)、浅野英樹(3、五城目一)、菅原文夫(3、山王)、[責]竹内一朔、[監]大久保正樹、[記]沢田石辰美(3、五城目一)
<昭和59年春 秋田高校登録選手> [投]菅野淳(3、秋田西)、[捕]栗山英(3、五城目一)、[一]中田善英(3、潟西)、[二]鷲谷衛(3、井川)、[三]加賀谷隆之(3、天王)、[遊]○鈴木亮(3、羽城)、[左]中島一人(3、秋田西)、[中]工藤衛(2、大正寺)、[右]佐々木真樹(3、秋田西)、田口康(3、下浜)、太田政直(2、城東)、米谷友(2、天王)、高砂明(2、秋田北)、小林勇人(1、城東)、加藤明(1、五城目一)、渡部純(3、秋田北)、高田環樹(1、土崎)、[責]竹内一朔、[監]大久保正樹、[記]金谷仁(3、外旭川)

秋田県高校野球スーパーサブ列伝②

[金足農]昭和63年、背番号7ながら2番手として登板していた大越久美(潟西中、176/73)、内野手として俊敏なプレーを見せた富岡善昌(下浜中、174/64)。平成2年、春センバツ出場、船木良明(秋田東中、179/79)は右大型本格派投手。平成3年、佐藤平(秋田北中、172/66)は元レギュラーで俊足打。

[秋田高]昭和62年、2年時にセンバツベンチ入りした佐藤秀一(協和、176/65)は東京育ちで投手に野手にユーテリティだった。昭和63年、珍田靖郎(秋大付、178/74)は先発マウンドにも立った右本格派。平成元年、春センバツ出場、山内崇章(雄和、171/61)の内野守備は印象深い。現NHKアナウンサーの伊藤慶太(秋大付、178/67)は右本格派で父は秋田商のエースだった。平成2年、高屋速人(河辺、178/63)は全県中学にも出場し投手兼野手。平成3年、夏甲子園出場、沢井直豊(城東、180/76)は大型内野手で他チームならレギュラークラスか?

[秋田中央]昭和62年、佐藤淳(秋大付)は3番手ながら右の好投手。昭和63年、菅沼博明(大潟中、169/63)は小柄ながらキビキビした選手。平成2年、堀川浩之(秋田東、168/59)は右の技巧派投手で全県中学準優勝。

秋田県高校野球スーパーサブ列伝①

昭和54年、秋田商エースは山岡政志(下浜中)、藤原博直(羽城中)も好投手だった。とありますが、昭和51年の誤りです。ので訂正願います。秋田商業は50年、51年と二年連続で甲子園出場しております。以上。ちなみに、卒業後の54年は高山投手が甲子園に行ったのではなかったでしょうか。【藤原博直】
前略。まずは甲子園組から年代別に。

昭和40年、秋田ベスト4の時の背番号1は左の鐙文行が付けていたが、2年生大久保正樹は1回戦大鉄、2回戦日大二戦でロングリリーフで好投している。

昭和46年、秋田市立高橋(範)がエースナンバーだが船木千代美がロングリリーフ。

昭和48年、秋田ファースト小野巧(八郎潟中)がエース高原宏(八郎潟中)をリリーフして好投。

昭和49年、秋田市立エースは石崎透(高清水中)だが、控の鷲谷亘(秋田北中)は他チームではエースだろう。

昭和54年、秋田商エースは山岡政志(下浜中)、藤原博直(羽城中)(※昭和51年の誤り)も好投手だった。

昭和55年、秋田商エースは高山郁夫(花岡中)、控は背番号1主将の安保(八幡平中)、今野、山本英樹(秋田南中)と多彩。

平成5年、経法大付は2年小野仁(泉中)がエース格、控には左の小島英人(泉)と右の小倉克芳(勝平)がいた。また捕手の西山純(西部中)と外野手多田勝(左近山中)は元レギュラー。

平成6年、秋田エースは今利浩(協和)、控の下手池田智(大正寺中)と上手松田真拓(八郎潟中)の両右腕は完投能力十分だった。新チーム秋のレギュラー大和田平(城南中)もスーパーサブだった。

平成7年、金足農ベスト8進出のエースナンバーは千葉純(勝平中)だったが、故障のため一塁佐藤慶和(合川中)がエース格で右の外野佐藤直人(勝平中)と加藤優貴(大潟中)も登板した。

平成8年春、秋田後藤光尊(八郎潟中)がエース、本格派神谷了(協和中)と技巧派森康隆(秋田南中)が控えた。三塁には控の2年伊藤元志(男鹿南中)が先発出場した。

同年夏、経法大付エース左腕金沢博和(花輪二中)の他に右の鎌田祐哉(秋田北中)。野手組では前の4番三浦怜也(神代中)もいた。

平成9年、秋田商エースは石川雅規(秋田北中)、サブで信田道輝(西仙北東中)、根元喬(稲川中)、1年の伊藤大吾(城東中)。

平成10年、金足農田口正也(河辺中)はエース左腕佐藤佑(城東中)に劣らないサウスポーだった。

秋田県高校野球ライバル物語⑦ 石崎透 vs 小山広美 

東都大学リーグを沸かせた2人、石崎透(東洋大-秋田市立-高清水中)vs小山広美(専修大-秋田商-土崎中)。

本文中、石崎投手が全県優勝投手とありますが、小山投手が土崎中時代の優勝投手です。【冬将軍野】

2人は昭和31年の生まれで、中学時代から好投手として注目されていた。

石崎は全県少年野球優勝の本格派投手として秋田市立へ、小山は貴重な左腕として捕手の橋村と一緒に秋田商へ進む。

高校進学後の小山は、俊足好守好打の外野手として活躍。中学時代の実績は小山の方が上だったが、高校では石崎が1年と3年の2度甲子園出場を果たしている。

小山は3年夏の奥羽大会で弘前実に苦杯を喫したが、秋田市立はその弘前実を破り甲子園に進んでいる。当時、秋田市立は秋田商を苦手としていただけに、もし決勝に秋田商が勝ち残っていたらと思うと興味は尽きない。

高校卒業後2人ともに東都リーグの大学に進み、小山は東都の韋駄天の盗塁王として、石崎もクリーンナップの一角を担った。

大学卒業後もまたともに日本石油と秋田相互銀行の社会人に進んだ。(敬称略)

※平成8年8月発行の「熱球通信」よりの再掲です。

記事検索
カテゴリ別アーカイブ
月別アーカイブ
読者登録
LINE読者登録QRコード
QRコード
QRコード
月別アーカイブ